2021年7月15日木曜日

イボキサゴ 観察記録3Dモデル

 2021.07.10木更津干潟で行われた令和3年イボキサゴ採取会で採取したイボキサゴの観察記録3Dモデルを作成しました。

1 イボキサゴ 観察記録3Dモデル

イボキサゴ 観察記録3Dモデル

2021.07.10木更津干潟で採取

2021.07.15撮影


令和3年イボキサゴ採取会(7月)の様子


イボキサゴ採取の様子


イボキサゴ撮影の様子
小さな孔が開いているイボキサゴ1点が含まれています。他の生物に食べられた跡のようです。


イボキサゴ観察記録3Dモデルの動画

2 感想

ア イボキサゴ模様・色彩の多様さ

千葉市埋蔵文化財調査センター所長西野雅人先生からいただいたイボキサゴ採取会資料に次の記述があります。

「イボキサゴの模様や色は個体ごとに違っています。この特徴は二枚貝にはよく見られますが巻貝ではきわめて珍しいです。巻貝のほうがきれいなものが多いですが基本的に同じ色をしているんです。」

確かにどのイボキサゴも同じ模様・色彩をしているものはありません。初めて知りました。

イ イボキサゴ模様・色彩の美しさ

イボキサゴは小さなものですが美しい巻貝として感じることができます。水に濡れている時はより色彩が鮮やかになります。よく見ると模様に小突起が連続しているものもあります。極端にいえば1つ1つが宝石のような感じすらします。

このような「美しい」と感じる気持ちは縄文人にもあったに違いありません。

…………………

このように思考している中で、誰かがささやくような心理感覚のなかで、縄文人がイボキサゴを大切なものとして保存したものが出土した例を印旛郡市文化財センター研究紀要2で見たことがあることを思い出しました。


坂戸草刈堀込遺跡発見の台付鉢形土器と収納されていた貝殻

高橋誠・林田利之・小林園子(2001):縄文集落の領域と「縄文流通網」の継承 -佐倉市坂戸草刈堀込遺跡発見の晩期貝層から-、印旛郡市文化財センター研究紀要2 から引用

イボキサゴを主体とする貝殻が収納されていた土器が出土した遺跡は海岸から直線距離10㎞以上はなれています。研究では貝を交易で入手したことは確実であると論じています。自分は、交易で入手した貝殻のうち特にきれいなモノを選んで収集し、土器に入れて大切にしていた縄文人がいたと理解します。

ウ 実の採りにくさ

イボキサゴの実(肉)の採りにくさを身をもって体験しました。楊枝等で引っ掻けても、2本の楊枝でつまんでも中実全部を引張りだすことはほとんど不可能です。このような特性から、イボキサゴの実の食べ方は他の貝とは違うようだと理解できました。自分はこれまで、アサリやシジミのように時間をかけて小さな実をとりだしていたに違いないと考えていました。しかしそのようにすると、実が途中で切れて、半分以上は殻に残ってしまい、食べられません。有吉北貝塚におけるイボキサゴの出土状況をみると、イボキサゴの破砕率は他の貝種と比べて特段に高くなっています。このことから、採ったイボキサゴを容器にいれてそのまま破砕して、そこに水を入れて、殻と実の比重の違いを利用して実(肉の部分+ドロドロの内蔵部分)だけを巧みに溶出利用していたと想像できます。実といっても肉とドロドロ内蔵が一緒ですから、魚醤のような利用の仕方を想定すると、単純なタンパク源ではない、付加価値の高い製品を作っていたと想像できます。

2021年7月13日火曜日

編集再掲 地名「検見川」は俘囚の検見(尋問)に由来する

 1 過去記事再掲について

このブログの2014.12.24記事「地名「検見川」は俘囚の検見(尋問)に由来する」に最近複数のコメントをいただきました。7年前の記事であり、どれくらい閲覧されているのか念のため管理画面を見てみました。そうしたところ、驚くべきことに、過去1年間閲覧数最高記事がなんとこの7年前記事「地名「検見川」は俘囚の検見(尋問)に由来する」であることに気が付きました。

参考 ブログ花見川流域を歩く 過去1年間 閲覧数ベスト5

第1位 2014.12.24記事「地名「検見川」は俘囚の検見(尋問)に由来する」

第2位 2016.06.02記事「千葉県のアイヌ語地名「メナ」」

第3位 2015.02.27記事「地名「犢橋(コテハシ)」の語源」

第4位 2014.04.08記事「縄文海進クライマックス期の海陸分布」

第5位 2013.12.06記事「印旛沼からの洪水排水と「非対称性」」

古い記事ほど閲覧数が累積しますから、一般に順位を付けるならば古い記事ほど有利です。しかし、この順位は2020.07~2021.07の1年間の順位です。自分では大いに意外です。最近の考古学習とか3Dモデルとかの記事は7年前と較べるならばはるかに沢山の方に閲覧していただいています。しかし、その何十倍もの閲覧がこの1年の間に地名記事にあります。おそらく、何かの弾みでこれらの記事が特段に検索されやすくなっているのだと思います。

閲覧数増加の理由はさておき、現実に多くの方に閲覧していただき、コメントもいただいています。そこでこの記事をもう一度2021年記事として再掲し、もしコメントをいただけるならば、2021年時点でさせていただきたくお願いする次第です。

検見川地名由来について、ご教示あるいはご意見ご感想があればコメントの程なにとぞよろしくお願いします。(なお、このブログのコメント(匿名含む)は管理者が確認後掲載されます。)

3つ記事を連続して再掲します。

2 2014.12.24記事「地名「検見川」は俘囚の検見(尋問)に由来する」

2014.12.24記事「花見川河口津付近の遺跡と地名」で、花見川河口津に古代律令国家の治部省玄蕃寮の出先機関があった可能性がきわめて濃厚であることを述べました。

玄蕃寮は国内の夷狄(蝦夷・隼人等)の管掌を行っていたことから、花見川河口津に陸奥国から送られた蝦夷戦争俘囚の移送中継施設があり、それが小字名「玄蕃所」として現代にまで伝承してきていると考えました。

さて、小字名「玄蕃所」は近世「検見川村」に位置します。昭和初期検見川町の大字検見川にふくまれます。検見川は少なくとも中世から地名として存在しています(角川日本地名大辞典)。


近世検見川村の領域

この地名「検見川」の意味説明は、私はこれまで納得のいくものがありませんでした。

ところが、この検見川の地に玄蕃所という特殊施設(俘囚一時収容施設)があることに気がつくと、私は、一気に検見川の意味が脳裏に浮かびあがりました。

自分の感情レベルでは「検見川」語源を探り当てたと思うようになりました。

陸奥国から送られてきた俘囚は、玄蕃所で検見(「よく見て調べること」精選国語大辞典、小学館)されたのです。

俘囚は花見川河口津まで水運で運ばれてきて、玄蕃所で尋問され(検見され)、その思想性や健康状態などを検査され、隼人などのように精強な軍事組織に組み入れるグループ、貴族の使役奴隷に回すグループ、各地の地域開発の労働力奴隷として回すグループ、…などに分類されたのだと思います。

つまり、花見川河口津の「玄蕃所」における検見(けみ)で俘囚の運命が決まったのだと思います。

俘囚とはいえ、同じ人間の運命が、それも多人数の運命が「玄蕃所」で決まることは、恐らく近隣の人々に一種の心理的影響を与えたと考えます。

その心理的影響から、玄蕃所のある地域一帯の地名が「検見川」となったと考えます。

俘囚は遠く陸奥国から水運で運ばれ、印旛浦、花見川-平戸川船越、花見川を経由して花見川河口津に到着し、そこで検見され、運命が決まったのです。

運命が決った俘囚は花見川河口津から東京湾に船出し、西方各地に送られて新しい境遇人生が始まったのです。

花見川河口津付近の人々は、俘囚が水運で運ばれてくる花見川を、俘囚の運命が決ることに思いを深めて、検見川と呼んだのだとの思います。

検見川とは自然現象の川、風景としての川ではなく、俘囚が運ばれてきて、この地でその運命が決ってしまうという、その俘囚の運命に移動経路の川を重ねた一種の比喩語です。

アフリカ大陸を暗黒大陸などと比喩するのと同じ言葉使いです。

その比喩語検見川が地名となったのです。

その後玄蕃所がなくなって検見川の意味は全く忘れられてしまったのだと思います。

ただ地名は、恐ろしく愚直に現代まで伝承してきているのです。

3 2014.12.24記事「花見川河口津付近の遺跡と地名」

1 花見川河口津付近の遺跡

花見川河口津付近の埋蔵文化財分布と主な遺跡の古代検出物を示します。


花見川河口津付近の埋蔵文化財分布

居寒台遺跡と直道遺跡だけで古代住居跡69軒、掘立柱建物40棟が検出されています。

単なる居住地域ではなく花見川河口津(直轄港湾)に関わる施設がここにあったと考えることが順当です。

2 花見川河口津付近の地名

次の図は昭和初期の大字検見川の小字分布図を示していて、私が注目する小字地名を抜書きしています。


昭和初期大字検見川の小字名

ア 玄蕃所(げんばしょ)

古代遺跡がある場所に玄蕃所という地名が残っているのですから、この玄蕃所は玄蕃寮の東国出先施設がここに在ったと考えることが順当です。

玄蕃寮は次のように説明されています。

げんばりょう 〔玄蕃寮〕

律令制の官司で治部省に属する。和名類聚抄の〈ほうしまらひと(法師客人)のつかさ〉の訓のように、玄は僧、蕃は蕃客の意。京内の寺院・仏事、僧尼の掌握、外国使節の接待、鴻臚館〘こうろかん〙の管理、在京の夷狄(蝦夷・隼人等)などを管掌した。玄は中国では道教を意味し、隋・唐では崇玄署という道士を監督する役所が設けられ、僧尼も合せて管轄した。日本には道士が存在しないので、玄で僧侶のみをさすことになったとみられる。僧尼・仏寺の管轄範囲は、令制では京内に限られていたが、延喜式制では畿内・諸国にまで及んでいる。

「岩波日本史辞典」(岩波書店)

地名「玄蕃所」の伝承は、玄蕃寮の東国出先で、陸奥国から送られてくる俘囚を国内各地に移送する中継施設としての玄蕃所が存在していた可能性を濃厚に物語ります。

同時に、花見川河口津に俘囚移送中継施設があったと考えると、花見川-平戸川船越が俘囚移送路であったことは確実であり、花見川-平戸川船越ルートが軍事的に重要な水運路であったことを物語ります。

イ 居寒台(いさむだい)

「いさむ(勇)」という言葉には「水戦で、貝を吹き鳴らす」(国語大辞典、小学館)という意味があります。

この場所が軍事的な場所であったことを示す地名です。

玄蕃寮が管理する外国使節の接待施設である鴻臚館は同時に軍事的な側面も持っていました。(「世界大百科事典」(平凡社)による)

ですから陸奥国から送られてきた俘囚を西方の各地に送り出す中継施設である玄蕃所も当然軍事的備えをしていたと考えられます。

地名「玄蕃所」と地名「居寒台」はセットの地名であり、居寒台遺跡、直道遺跡等の古代住居69軒、掘立柱建物40棟などは俘囚収容施設やその管理施設等であった可能性が濃厚です。

ウ 木戸尻(きどじり)

軍港があり、俘囚収容施設があれば当然それらの施設は柵で囲まれます。出入り口は柵に設置された特定の出入り口である「木戸」になります。

地名「木戸尻」は軍港・俘囚収容施設などの施設群の背後(陸側)にあった出入口の場所を指す地名であったと考えます。

下総台地の各地に「木戸」地名がありますが、ほとんどが官施設のあった場所の近くであり、古代拠点の存在を示唆する強力な指標地名です。

4 2017.01.05記事「花見川河口津付近の地名「直道」(ナオミチ)の解釈」

(2記事と3記事重複部分は略)


昭和初期大字検見川の小字名

2 小字「直道」(ナオミチ)の解釈

道の意味は人が歩む道という意味であり、直道は「人が歩む道に直る」「人が歩む道に直す」という意味に解釈します。

つまり俘囚が蝦夷の考え方を捨て、中央政府社会に服属を誓うことを直道(ナオミチ)と称したのだと思います。

より具体的には、俘囚教化施設があった場所の地名であると考えます。

直道(ナオミチ)と同じような用語法の言葉に直会(ナオライ)があります。

3 小字「大道」(オオミチ)の解釈

直道に隣接して小字「大道」(オオミチ)があります。

検見川台地上に幅広の大路が存在していたという情報は知りません。

小字「大道」(オオミチ)も「人が歩むべき正しい道」という比喩的な意味であると考えます。

直道(なおみち)(=俘囚教化施設)で中央政府に服属することを誓った俘囚が各地に移配される前に収容された施設が存在していた場所だと考えます。

小字「大道」(オオミチ)は服属した俘囚が中央政府社会に旅立つ(移配される)、開かれた場所を意味すると考えます。

4 花見川河口津における俘囚検見プロセス

花見川河口津における俘囚の検見プロセスを次のように想像することができます。

ア 居寒到着

陸奥国から平戸川-船越-花見川経由で居寒(花見川河口津(軍港))に俘囚が到着します。

イ 玄蕃所における検見

玄蕃所で俘囚は検見(尋問)を受けます。

ウ 直道での教化

俘囚は教化施設で中央政府に力づくで服属させられます。

エ 大道からの移配

服属した俘囚は外に開かれた施設に移り、そこから全国各地に移配されます。

2021年7月11日日曜日

イボキサゴ採取会 体験記

 1 体験の記

2021年7月10日(土)に令和3年イボキサゴ採取会(7月)が開催され、参加させていただきました。前日までの小雨模様の天気から晴れとなり、風や波もなく、絶好の干潟活動日和となりました。

10:20に東京湾アクアライン近く見立漁港に集合。千葉市埋蔵文化財調査センター所長西野雅人先生からイボキサゴについて短い説明があり、早速地元金田漁協さんの協力により船で干潟先端に移動しました。


船で移動している様子


GPSログ(Google earth pro 斜め表示)

干潟ではザルで砂をすくうと面白いようにイボキサゴがとれます。


ザルで砂をすくう


砂を洗い出して残ったイボキサゴ

場所によってイボキサゴの粗密はあるようですが、自分の感覚ではマグカップ1杯の砂の中にイボキサゴ20~30匹はいるようですから、べらぼーの密集状況です。

漁協の方からイボキサゴ用に改良したジョレンによる採取のデモンストレーションがありました。(ただし、あくまで見学者向けのデモンストレーションでありイボキサゴは漁業対象にはなっていません。)


改良ジョレンによるイボキサゴ採取


沢山とれたイボキサゴ


イボキサゴ採取会の様子


イボキサゴ採取会の様子


イボキサゴ採取会の様子

自分は1時間ほどのイボキサゴ観察・採取をして船で再び見立漁港にもどりました。

貴重な体験機会を与えていただき、西野雅人先生に感謝します。

2 感想

イボキサゴはあまりに小さく、実を取り出す苦労が多く、それに比して食して得られる満足感が少ないという関係から、貝塚から大量出土することが長らくナゾでした。しかし西野雅人先生を先頭にして千葉県貝塚研究者により「旨味」成分抽出がメインの目的で採取されたことがわかってきました。もちろん実も全部食べたに違いありませんが、それよりも、固い植物を鍋料理で旨くたべるための「旨味」「ダシ」として使われたということです。

昨今、日本和食文化が世界文化遺産として注目され、観光など日本経済においてもその役割が増大しています。その日本和食文化の真髄である「旨味」のルーツの一つが縄文中期にまで遡って特定されたという意義は大きなものがあります。イボキサゴを単に考古研究という視点からだけみるのではなく、和食文化の究極のルーツとしてみることの重要性を感じました。

イボキサゴ関連商品をつくり縄文研究成果普及とセットで千葉県特産品として世に出してほしいという感想が生まれました。

3 参考


GPSログ(Google earth pro斜め表示)


GPSログ(標準地図)


2021年7月9日金曜日

有吉北貝塚北斜面貝層から出土した藤内Ⅱ式土器

 縄文社会消長分析学習 112

2021.07.08記事「土はどこから 補遺」で掲載した画像「第2断面 純貝層直下の混貝土層から出土する多様な遺物」の写真に写る藤内Ⅱ式土器について写真を拡大してみました。

1 第2断面 純貝層直下の混貝土層から出土する多様な遺物


第2断面 純貝層直下の混貝土層から出土する多様な遺物

2 Ⅱ-42・52 P層


Ⅱ-42・52 P層

3 「Ⅱ-42・52 P層」に写る藤内Ⅱ式土器


「Ⅱ-42・52 P層」に写る藤内Ⅱ式土器

この土器片は発掘調査報告書では、第4群土器に分類されています。阿玉台Ⅲ式期に比定される勝坂様式の資料で藤内Ⅱ式の縦帯区画文土器で、隆線による三角形区画文が縦帯し、内部には彫刻的手法による三叉文が充填されると記述されています。

この古い土器片が11群土器片(加曽利EⅡ式最終段階)と一緒に出土することに興味を持ちます。11群土器片と4群土器片が11群土器の時代に一緒にこの場に持ち込まれたことは確実です。11群土器時代に4群土器片が台地集落内に保存されていたことと、それをわざわざ祭祀的な場所に持ち込むことから、一種の記念品として保存されていた土器片が重要な祭祀に際して持ち込まれたと想像します。

4 感想

11群土器(加曽利EⅡ式最終段階土器)の簡素化省略化した渦巻と特徴的な懸垂文と較べると、藤内Ⅱ式土器の三角形区画文とその中に彫刻的手法で描かれた三叉文は文様デザインの重厚さ、緻密さという点が浮き彫りになります。このデザインの違い(簡素と重厚の違い)は11群土器を使っていた縄文人も同じように感じていたと想定します。

藤内Ⅱ式土器片を加曽利EⅡ式最終段階縄文人が本当に「お宝」「記念品」として所持していたかどうかは証明する手段がありません。単純に竪穴住居周辺に転がっていたものにすぎないかもしれません。しかし祖先がつくったこの土器片をわざわざ北斜面貝層に持ち込んでいるのですから、11群土器とはまた異なる効能(ご利益)を期待したとか、11群土器が発揮する効能(ご利益)を補強したとかがあったに違いないと想像します。

2021年7月8日木曜日

土はどこから 補遺

 縄文社会消長分析学習 111

2021.07.07記事「有吉北貝塚北斜面貝層成立メカニズム 土はどこから」の裏付けとなるような情報を4点について補遺としてメモしておきます。

1 土を採取した場所


土を採取した場所

混土貝及び混貝土作成材料として、及び埋め立て材料として土を採取した場所を想定しました。ガリー主流路右岸側の地山が不自然に凹み、まるでミニ河岸段丘のようになった場所もあります。この場所以外に土を採取した場所は見つかりません。

2 混土貝層から出土する多様な遺物


第2断面 純貝層直下の混貝土層から出土する多様な遺物

第2断面で、純貝層に覆われた混貝土層から多様な遺物が出土しています。多様な土器片とともにほぼ完形で器台が出土しています。器台は祭具です。この混貝土でつくられたテラスが祭場として機能していたのでしょうか。(なお、器台出土の記述は発掘調査報告書では見つかりません。)イノシシ頭骨、イタボガキ貝輪と磨製石斧の共伴出土なども否が応でもこの場所が祭祀的場所である可能性を物語ります。

写真左上の多数土器片写真の右端の土器片は発掘調査報告書では第4群土器に分類されています。阿玉台Ⅲ式期に比定される勝坂様式の資料で藤内Ⅱ式の縦帯区画文土器です。隆線による三角形区画文が縦帯し、内部には彫刻的手法による三叉文が充填されると記述されています。この古い土器片が11群土器片(加曽利EⅡ式最終段階)と一緒に出土することに興味を持ちます。11群土器片と4群土器片が11群土器の時代に一緒にこの場に持ち込まれたことは確実です。11群土器時代に4群土器片が台地集落内に保存されていたことと、それをわざわざ祭祀的な場所に持ち込むことから、一種の記念品として保存されていた土器片が重要な祭祀に際して持ち込まれたと想像します。

3 縦断面との対比

第1断面(縦断面)を色塗りしました。


第1断面(縦断面)


第1断面(縦断面)の位置

この第1断面(縦断面)と第2断面が交差する線分で標高26.9mのポイントに着目してみます。


第1断面(縦断面)と第2断面の対応

第1断面(縦断面)では標高26.9mポイントから左上に地層境界面が直線状につづき、ガリー地形埋め立て概成時の地形面であると想定ができます。一方、同点を第2断面(横断面)でみると混貝土層と純貝層の間の境界線に通じる位置にあります。この位置関係から、第2断面の純貝層形成直前にはガリー地形が混貝土層をメインにしてほぼ埋め立てられていたことがわかります。ガリー地形特有の基底急崖が埋め尽くされ無くなっています。

ガリー地形の埋め立てが盛んに行われたり、概成したりした時期に、工事成就祈願の祭祀がたびたび行われ、その結果が第2断面混貝土層に残ったと考えることができます。またそれらの祭祀跡を工事完成(概成完成)を記念して、純貝層で覆い、後世に向かって保存保全したと考えても矛盾は生まれません。

4 第2断面の砂層・土層混在について


第2断面 検討図

第2断面のオ(砂層・土層混在)について、その混在状況が自然堆積物(崩落物)と考えると不自然であり、人工埋め土であると想定します。次の資料の通り、下流の横断面では左岸に砂層と土層が観察できますが、それらの混在はなく自然崩落物(崖錐など)と観察できます。


横断面における左岸砂層・土層の様子


2021年7月7日水曜日

有吉北貝塚北斜面貝層成立メカニズム 土はどこから

 縄文社会消長分析学習 110

発掘調査報告書掲載第2断面の詳細記述を良く読んで、第2断面から読み取れる貝層成立メカニズムを検討しました。そのなかで、貝層に含まれる土の起源や混貝土層・混土貝層の意義、純貝層の意義について作業仮説の候補となるようなイメージが湧いてきましたのでメモします。

1 第2断面


第2断面


第2断面写真


第2断面写真


第2断面位置

2 第2断面詳細記述に基づく貝層形成メカニズム検討


第2断面詳細記述に基づく貝層形成メカニズム検討

ア 谷底に薄く堆積する土層で、右岸側の地山から掘削して運搬してきて埋め土したものであると考えます。この時期は少し下流で廃用大型土器を破壊して大形土器片を配置した頃であると考えます。

イ 混貝土層が3層にわたって堆積しています。この混貝土層から土器やイノシシ頭骨などが出土しています。遺物が豊富です。土は右岸地山から掘削運搬してきて、この現場で貝(破砕貝など)と混ぜて埋め土したものと考えます。混貝土層により形成する地面は祭祀の場として利用されたものと考えます。

ウ 純貝層から顕著な遺物出土はないようです。純貝層はそれで地面を作るという意義よりも、大切なモノを覆うという機能が大きかったものと考えます。具体的にはイで行われた祭祀活動の場を保存(保全)するためにつくられた聖的な覆いだったと考えます。

エ 混土貝層と混貝土層による継続的反復埋め土が行われ、祭祀活動の場であったと考えます。材料の土は右岸地山から掘削運搬されたと考えます。

オ ア~エの期間に右岸地山から掘削運搬して埋め土された跡であると考えます。ア~エとオの境はガリー主流路の流心であると考えます。

カ、キ、ク ア~オの貝層形成が終わった後(ガリー流路が貝層・土層で充填された後)、新たにガリー侵食された跡であると考えられます。

ケ キの後に形成された後期貝塚です。

3 感想

この記事では煩雑になるので掲載しませんでしたが、右岸地山から土を掘削した跡が地形として確認できます。

有吉北貝塚集落の人々は単純に貝を貝塚に捨てたというのではなく、貝を破砕する作業、土を掘削運搬する作業、貝(破砕貝)と土を混ぜて新たな埋め立て素材(混土貝、混貝土)をつくり埋め立てする作業、土だけの掘削運搬埋め立て作業をしていたことになります。

混貝土層から遺物出土が多いことから、混貝土層埋め立てで作られる地面は特別の意味があり、祭祀の場として利用されたのかもしれません。

純貝層は聖的なモノや活動(祭祀の場)を保全保護して封印する役割があったのかもしれません。

これだけの大土木工事をしていたのですから、土木工事にかかる道具などの推定も根拠を持ってできる可能性があるかもしれません。

また、これだけの大土木工事の意義が果たしてガリー侵食による集落災害危機にだけ対応するものかどうか、検討を要すると思います。ガリー侵食以外に同根のもっと大きな危機(食糧危機)がせまっていたのかもしれません。ガリー浸食地形を充填するという大土木工事が終わるとともに集落が終焉してしまうことがヒントになるかもしれません。

ガリー侵食が発生するということは植物が使い尽くされて、裸地が広がっていたということです。燃料危機とか食糧危機がガリー侵食危機と同時に発生していたのかもしれません。

2021年7月6日火曜日

有吉北貝塚北斜面貝層成立メカニズムに関する作業仮説

 縄文社会消長分析学習 109

有吉北貝塚北斜面貝層に関して発掘調査報告書データの分析が進んでいます。この活動の中で、いろいろな事実が判ってきました。まだ途中ですが現在までの知見に基づいてこれまでイメージしてきた貝層成立メカニズムを作業仮説としてまとめてみました。今後の分析作業を効率化するための仮説であり、不都合な点が判れば、躊躇なく加除修正するレベルの仮説です。

1 発掘調査報告書データ分析で判った事実など

分析作業で判った事実などを断面図・平面図作業画像にメモしました。


断面図・平面図作業画像メモ

1-1 北斜面貝層の位置

北斜面貝層は台地面と谷津谷底の間にある斜面の途中に発達する箱形窪地地形に形成されています。箱形窪地地形のガリー主流路左岸側(西側)だけにすっぽり収まっています。

住居近くの斜面に単純に貝を捨てたのではありません。特異な箱形窪地地形を意識してそこにだけ貝塚を形成しています。


参考 有吉北貝塚における北斜面貝層の位置

1-2 北斜面貝層の分布

箱形窪地地形の中に南北方向にガリー主流路(おそらく普段は空川)があり、その主流路を越えて貝を捨てていません。

なおガリー主流路堆積物は流心付近で明瞭に貝塚堆積物と土層に分かれます。(画像メモC参照)


参考 ガリー主流路流心を境に左右で堆積物が異なる様子

1-3 ガリー侵食地形と崩落物堆積地形

箱形窪地地形の貝塚形成前の地形は上流側はガリー侵食地形、下流側は崩落物堆積地形であると断面図や発掘写真から想定できます。ガリー浸食地形はその谷底に10群・11群土器(加曽利EⅡ式土器)をメインにして、集落最終期土器(12群土器…加曽利EⅢ式土器)を含む大形土器片層が存在します。この事実からガリー侵食地形は12群土器(加曽利EⅢ式土器)頃までアクティブであったと推定できます。つまりガリー浸食地形は加曽利EⅡ式~EⅢ式期頃急発達した可能性があります。一方、崩落物堆積地形は更新世の化石谷津であると想定します。(画像メモのAとB参照)


参考 貝塚形成直前地形の想定

1-4 貝層のほとんどが破砕貝による混土貝層と混貝土層

貝層はほとんどが混土貝層と混貝土層であり純貝層はとても少なくなっています。また純貝層以外の貝は破砕されている率が高くなっています。つまり貝層は、意図的に貝を破砕し、意図的に土と混ぜ、それを意図的に斜面や谷底に隈なく設置して、箱形窪地地形の集落側を充填するような様相を呈しています。

画像メモAではガリー侵食地形谷頭部に混土貝層と混貝土層が充填していますが、土器や獣骨の出土状況写真をみると混土貝層と混貝土層を下から積み上げて充填したもで、上から投げ込んだものではないような印象を受けます。

1-5 大形土器片

箱形窪地地形谷頭の少し下流から中央付近にかけて、基底で流路を覆うように廃用大型土器を破壊して作られる大形土器片が層を成しています。その大形土器片のメインは11群土器(加曽利EⅡ式土器の後半)ですが、12群土器(加曽利EⅢ式土器)も含まれています。12群土器は集落最後の土器群です。


参考 大形土器片の分布

1-6 縄文後期までのガリー侵食痕跡

第2断面には混土貝層・混貝土層が形成された後で後期貝層が形成される前までにガリー侵食を受けた痕跡が残されています。


縄文後期までにガリー侵食を受けた混土貝層・混貝土層の様子

2 北斜面貝層形成のメカニズム(作業仮説)

ア 11群土器頃(加曽利EⅡ式後半頃)箱形窪地地形でガリー侵食が突然発生し、集落中心部台地地形崩壊という災害危険性が顕在化しました。

イ 集落として災害防止のために土木的対処を含む取り組みを意思決定したと考えます。

ウ ガリー主流路の下方侵食防止のために、一部区間に廃用大型を持ち込み破壊して大形土器片をつくり、主流路の上に並べました。現代防災工事における床固工と類似している工事です。廃用大型土器を現場で破壊する活動は祭祀的活動であったと想像します。大形土器片と一緒にイノシシ頭骨、下顎骨が複数出土しています。

エ ついで、破砕貝を土と混ぜた混土貝・混貝土を多量につくり、それをガリー侵食地形に充填する活動を精力的に行いました。

オ さらにガリー侵食地形のみならず隣接する崩落物堆積地形にも混土貝・混貝土及び純貝層を堆積させ、箱形窪地地形全体を埋め立てるような活動を行いました。

カ この結果、ガリー浸食地形の進展は防止されました。

キ 12群土器(加曽利EⅢ式土器)を最後に集落は消滅しました。

ク その後、後期貝塚が形成されるまでの間に充填した混土貝層・混貝土層が一部ガリー侵食で失われ、それが貝層断面に記録されています。

3 メモ

・これまで崩落物堆積地形の貝層は古く、ガリー侵食地形の貝層は新しいと見立てていましたが、土器出土状況をみるとどうも逆のようです。今後詳しくデータ分析します。

・箱形窪地地形の地学的出自は貝層断面図から侵食と堆積という違いによるり、2つに区分される蓋然性が高まりました。

・第2断面図で混土貝層・混貝土層が侵食されている様子が確認できましたが、純貝層を中心にして充填物の基本は残存しています。混土貝層・混貝土層・純貝層が侵食に強い素材であることが証明されたともいえます。

・北斜面貝層形成は一種の土木事業であると見立てて間違いないという感想を持ちました。


2021年7月3日土曜日

有吉北貝塚北斜面貝層基底の大形土器片層

 縄文時代社会消長分析学習 108

2021.07.02記事「有吉北貝塚北斜面貝層谷頭部は縄文時代災害防止工事遺構」で 有吉北貝塚北斜面貝層の谷頭部付近がガリー浸食地形を埋めて台地浸食破壊を食い止める防災工事跡である、防災工事遺構であるという見立てを述べました。この見立てでは貝層基底部に存在する大形土器片層を現代でいえば床固工であると考えました。この記事ではこの大形土器片層を観察してみます。

1 再掲 有吉北貝塚北斜面貝層谷頭部は縄文時代災害防止工事遺構(見立て)


有吉北貝塚北斜面貝層谷頭部は縄文時代災害防止工事遺構(見立て)

2 第3断面付近の土器出土層 平面図、断面図、土器出土状況写真


第3断面付近の土器出土層 平面図、断面図、土器出土状況写真

土器出土状況図と写真を対照することができましたので、写真、平面図、断面図を総合的に観察できます。普段は枯れている流路にそって大形土器片が分布しています。その場で破壊されたと考えられます。流水の影響は特段に感じられません。廃用大型土器をこの谷底まで持ち込みそこで破壊して、ほぼそのまま残存したのだとおもいます。仮に頻度の低い出水で土器片が流されても、再びこの場に廃用土器を持ち込み破壊して、結局流路沿いに大形土器片層を残存させたのだと思います。

3 第4断面付近の土器出土層 平面図、断面図、土器出土状況写真


第4断面付近の土器出土層 平面図、断面図、土器出土状況写真

ここでも土器出土状況図と写真を対照することができました。第3断面と状況はほとんど同じです。しかし、この付近では平面図でインブリケーション(覆瓦状構造)が観察できます。


参考 土器出土状況の様子


参考 覆瓦状構造

土器片が流水の影響を受けたことがあることはこの覆瓦状構造の存在から明らかです。しかし、全体の様子は流水の影響をあまり感じさせない堆積状況を示すといっていいと思います。このような様子は、土器片が流路固定のために設置された床固工類似施設であると考えると、よく理解できます。つまり、土器片層は通常レベルの流水発生では流路を固定していた(下方浸食を防いでいた)ということです。縄文人は通常レベルの流水発生では運搬されることがなく下方浸食されないであろうと考えた土器片をその場に設置したのだと思います。

4 第5断面付近の土器出土層 平面図、断面図、土器出土状況写真


第5断面付近の土器出土層 平面図、断面図、土器出土状況写真

ここでも土器出土状況図と写真を対照することができました。

この付近より下流では土器片の分布が散漫になりかつ拡大します。また土器片が小さくなります。この付近から下流では上流から運搬されてきた土器片が多くなるのかもしれません。

5 メモ

一人では到底運べない廃用大型土器を谷底まで運び込み、その場で破壊するというきわめて特異で意識的な活動が認められます。

この記事では扱いませんが、イノシシ頭骨、下顎骨が土器片とともに出土していて、イノシシ頭骨を使った祭祀が土器片層形成に関連して存在したと推定します。

大型土器破壊による大形土器片層は北斜面貝層でこの場所だけです。短い期間の1回きりの活動です。

出土土器は11群土器がメインですが、12群土器も含まれます。12群土器は集落最後の土器群です。つまり北斜面貝層谷頭部付近の貝層は基底面から最上部まですべて集落最終期に急いで形成された可能性が生まれます。貝層形成のメカニズムを解き明かさなければなりません。


2021年7月2日金曜日

有吉北貝塚北斜面貝層谷頭部は縄文時代災害防止工事遺構

縄文時代社会消長分析学習 107 

有吉北貝塚北斜面貝層の各種分析と写真カラー化による観察のなかで、思考のための材料が揃い、北斜面貝層谷頭部は縄文時代災害防止工事遺構であるという見立てを裏付け材料を整えて設定することができました。この記事ではその見立てをメモします。詳細解説資料は追って作成することにします。

1 有吉北貝塚北斜面貝層谷頭部は縄文時代災害防止工事遺構(見立て)


有吉北貝塚北斜面貝層谷頭部は縄文時代災害防止工事遺構(見立て)


見立ての裏付けとなる主な材料

2 メモ

断面図データから標高を拾い作成した基底地形を発掘状況写真、完掘写真で直接確認することができました。分析的データだけではなく、現場写真という直接データで確認できました。この情報からガリー浸食地形の実態が明白になりました。

また断面図情報からこのガリー浸食地形(遷急点を内蔵するV字谷)を下から順番に大形土器片、混土貝層・混貝土層、純貝層、混土貝層・混貝土層が覆って埋め尽くしている(地形を充填している)ことも明らかとなりました。

谷頭部にこのような人工充填作業を行うことは一般的廃棄作業では不可能です、意識的組織的活動によりつくられたと考えられます。状況からこの充填作業は集落中央部にせまる地形崩壊危機を回避するための土木工事、災害防止工事であると見立てました。

大形土器片層設置は流路の下方浸食防止のために設置されたと考えます。現代工法でいえば床固工です。混土貝層・混貝土層、純貝層の充填は難浸食材を使うことによる浸食防止です。現代工法でいえば土嚢による埋め立て、あるいはセメントを利用した埋め立てです。

なお現代土木工事でも貝殻を砕いて舗装材と混ぜて締め固めたり、コンクリート用骨材として利用しますから、貝殻を砕いて土と混ぜ、一段と締固められた土木空間を創造した縄文人の知恵の深さに感動します。混土貝層・混貝土層とは縄文人が意図して作成した土木空間埋め立て工事用材料です。


2021年7月1日木曜日

「土偶を読む」を読む

 竹倉史人著「土偶を読む」(2021、晶文社)を読みました。とても興味深い図書で考えさせられることがいろいろありましたので、感想をメモします。


竹倉史人著「土偶を読む」(2021、晶文社)

1 人類学者による土偶研究

考古学者による土偶研究ではなく、人類学者による土偶研究という点でこの図書は異色の研究だと思います。人類学者が土偶という考古発掘成果物を研究対象にしたこと自体に興味が湧きます。同じ土偶を扱っても考古学者と人類学者では研究の視点、手法が異なることは当然です。また得られる結果も同じようになるとは限りません。むしろ異なる見解が生まれることの方が健全です。土偶は考古学手法によって発掘整理されますが、それは社会的文化財になりますから、人類学者、神話学者、心理学者等の分野からも研究対象になることが社会全体の知性向上になると思います。

2 土偶は読むことができる

著者は土偶は読むことができる、土偶は一つの「造形言語」であり、文字の無かった縄文時代における神話表現の一様式であると述べています。自分は正にその通りと考えます。(自分は、著者の言葉を借りれば土偶のみならず土器も「造形言語」だと考えます。)なお、土偶は読む対象ではないとか、あるいは土偶を読んでもそれは実証できないのだから意味がないと考えるならば、この図書の記述は荒唐無稽に感じることになります。

3 植物の人体化

著者は植物の人体化(アンソロポモファイゼーション、anthropomorphization)という概念で土偶を観察して、土偶とは植物に手と足がついたものであると論じています。その論は世界で初めてであるとしています。

この図書では「植物の人体化」概念を土偶に当てはめたこの研究が、土偶研究の地平を新たに切り開くものであるのか、それとも単なる思いつきレベルの研究であるのか、その判断を読者に挑発的に委ねています。

4 土偶プロファイリング

9種の土偶について植物の人体化概念を当てはめて検討しています。最初のハート形土偶がオニグルミに酷似するという論は、自分は無意識的に反発するのではないかと意識が予想したのですが、結果は、「それもあるかもしれない」という感想を持ちました。


ハート形土偶とオニグルミ

竹倉史人著「土偶を読む」(2021、晶文社)から引用


驚くほどの形態の近似

竹倉史人著「土偶を読む」(2021、晶文社)から引用


驚くほどの形態の近似

Photoshopニューラルフィルター機能によるカラー化

しかし、読み進めるに従って「それはいくらなんでも違うんじゃない」という感想も幾つか浮かびます。同時になるほどと思うことも多々あります。

5 感想

著者の提示する事例を全部首肯できないですが、事例全部の完全否定もできません。むしろ植物の人体化概念のもっともらしさを感じるようになります。

土偶は女性のつくったものであり、植物採集が女性の仕事であったということを考えると、土偶に植物の人体化概念を当てはめることは魅力的仮説思考です。

この図書内容は、土器や土偶を扱う考古研究者の興味(分類、編年)とは離れています。つまりこの図書は考古学専門図書ではありません。あくまでも人類学図書です。そうした前提を踏まえて、この図書をさらに深く検討することを楽しむことにします。