2021年1月26日火曜日

中峠式土器とは

縄文社会消長分析学習 76

有吉北貝塚学習の一環として中峠式土器の学習を3Dモデル観察で行っています。この記事では観察を一度立ち止まって、「中峠式土器とは」という加曽利貝塚博物館企画展パンフレット記述を軸に中峠式土器の素性について学習します。

1 中峠式土器とは

加曽利貝塚博物館企画展パンフレット「あれもEこれもE -加曽利E式土器 北西部地域編-」では中峠式土器について次のように説明されています。

中峠式土器は1976年に下総考古学研究会(※)によって、松戸市中峠遺跡から出土した土器群を標準に、縄文時代中期の中頃の勝坂式土器・阿玉台式土器と後半の加曽利E式土器をつなぐ中間的な土器型式として設定された。(※在野考古学者によって設立された団体。)

中峠遺跡は下総考古学研究会によって1963年から1987年にかけて10次にわたり調査され、環状配置の中期竪穴住居20数軒、貝層、埋葬人骨等が検出された。

中峠式設定後その型式としての独立性に疑問が示された。1998年に下総考古学研究会は中峠式の再検討を行い、中峠式は系譜、分布が異なる土器群を一括して型式として認識していたことが判明した。また、勝坂式・阿玉台式と加曽利E式との間に、独立した時間幅をもって中峠式が介在する必然性はないと判断した。以上から従来の中峠式概念を解体し、中峠式とされた土器群を新たな類型として捉え直し、この時期の複雑な土器様相の研究を進めていく方向性を示した。


中峠式概念の変化

2 感想 1

中峠式土器を勝坂式土器・阿玉台式土器・加曽利E式土器と同列の独立型式とする在野考古学者による野心的試みが失敗したということだと思います。独立型式ではないというアカデミア内論争とその結末は別にして、勝坂式土器・阿玉台式土器から加曽利E式土器に変遷する途中過程の指標土器群としての意義は大きなものがあると考えます。並列して存在した勝坂式土器社会・阿玉台式土器社会からそれら社会にまたがる加曽利E式土器社会(縄文全時代でみた人口ピーク社会)に発展する経過の重要説明資料として、中峠式土器に着目して学習を進めることにします。

中峠式といわれる土器についてさらにその観察を続け、そのイメージを自分なりに獲得することにします。

3 中峠式土器の2つのルーツ

2021.01.16開催の加曽利貝塚博物館縄文時代研究講座「下総考古学研究会と中峠式土器」(大内千年先生講演)で、中峠式土器設定当初から2つのルーツが標準土器に記載されていることの説明がありました。とても興味深い情報ですから、その考え方を「下総考古学6」(1976,下総考古学研究会)を参考にメモしておきます。

3-1 勝坂式土器→加曽利E式土器の土器変遷仮説

勝坂式土器から加曽利E式土器への変遷を次のように仮説しています。


中峠式土器を型式設定した際の仮説

土器上半部の装飾の程度、土器上半部の縄文の存否、隆線上の刻文有無などについて勝坂式土器と加曽利E式土器の中間状況を示す土器が存在するに違いないという仮説を設定し、その仮説に該当する土器(中峠式土器)が出土したことにより、中峠式土器を型式設定しました。

3-2 中峠式標準資料に見られる2つのルーツ


1976年に設定した「中峠式」の標準資料

1976年に設定した「中峠式」の標準資料5点は最初からAとBに区分されて記載されています。

Aは口縁部装飾文様帯に縄文を使用しない土器で、勝坂式土器をルーツとするもの、Bは口縁部装飾文様帯にも縄文を使用する土器で、阿玉台式土器・大木式土器をルーツとするものです。

4 感想 2

勝坂式土器社会と阿玉台式土器社会が並列して存在していた時代からなぜ加曽利E式土器社会が生まれたのか、その社会変化の重要な瞬間を記録し指標している土器が中峠式土器であると考えます。単なる時間物差しとしての土器型式興味ではなく、土器文様に物語(神話)が伴っているという立場から、社会文化変動の瞬間を土器文様として記録している文化メディアとしての中峠式土器に興味を持ちます。

なぜ松戸付近に中峠式土器が発生したのかという地理的興味も深まります。

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加曽利貝塚博物館令和2年度企画展パンフレット「あれもEこれもE -加曽利E式土器 北西部地域編-」


「下総考古学6」(1976,下総考古学研究会)

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