2021年1月3日日曜日

有吉北貝塚 後期遺構

 縄文社会消長分析学習 67

有吉北貝塚の発掘調査報告書掲載情報の分析的学習をはじめています。有吉北貝塚のメインは圧倒的に中期ですが、その学習のウォーミングアップを兼ねて早期、前期、後期の遺構・土器を学習しています。この記事では後期遺構について学習します。

1 有吉北貝塚の後期遺構

後期遺構として竪穴住居1軒、土坑2基、斜面貝層1ヶ所が出土しています。


有吉北貝塚 後期 竪穴住居 土坑 斜面貝層 土器分布(2D)

1-1 竪穴住居

中期遺構集中域に囲まれる中期遺構が分布しない空間に後期竪穴住居1軒が検出しています。中期および後期土器片が出土し、その位置から中期に属さない考えられ、後期堀之内式期のものと想定されています。


竪穴住居実測図

有吉北貝塚発掘調査報告書から引用

1-2 土坑

土坑2基が検出されています。


土坑SK080実測図

有吉北貝塚発掘調査報告書から引用

ブロック状のイボキサゴ純貝層出土。


土坑SK115

有吉北貝塚発掘調査報告書から引用

中形ハマグリを主体とする混貝土層が堆積し、灰層も出土する。

1-3 後期北斜面貝層

中期貝層堆積終了後土層が間層として堆積し、その上に後期堀之内式1式期に貝を投棄したと考えれています。イボキサゴ・ハマグリを主体としてシオフキ等を少量含む貝層。土器破片・獣骨等を少量検出


後期北斜面貝層

有吉北貝塚発掘調査報告書から引用

2 メモ・感想

2-1 後期竪穴住居が中期遺構集中域を避けて立地した理由

後期竪穴住居が中期遺構集中域を避けて立地している様子に興味を持ちます。偶然ではなく先人の居住した場所を意識的に避けているのだと思います。

その理由はこの場所にやってきた後期人は遠方から(山梨や東京などから)やってきた人々であり、この場所に以前住んでいた先人とはなんのつながりもないことを住居の「切りあい」で証明しなければならないと考えていたからだと思います。

血縁や地縁で深いつながりのある場合、住居建て替えの時にわざと「切りあって」お互いの縁を物的に残します。後期に有吉北貝塚にやってきた家族はそのような状況をつくらないために、慎重に竪穴住居の立地場所を探して、たどり着いた場所が中期遺構空白区域だったのだと思います。

2-2 北斜面貝層を重複利用している理由

後期人は中期人遺構を避けて竪穴住居を立てましたが、斜面貝層は同じ場所を重複して利用しています。その理由は竪穴住居とは正反対の理由で、面倒な廃棄場所選定を自ら行わないで、先人がすでに利用した場所を再利用したのだと考えます。

2-3 竪穴住居と貝層・土坑の距離

竪穴住居と貝層(使用済み物品送り場所・廃棄物投棄場所)の距離が約50m、土坑までが約70mです。この距離は1軒だけの竪穴住居という贅沢な空間利用における居住環境を良好に保つための距離であると想像します。50mあれば貝層から不快な臭いはとどきません。土坑は双方ともに貝層が出土していて特にSK115は浅く貯蔵用とは考えられないので墓として利用されたものかもしれないと空想します。


有吉北貝塚 後期 竪穴住居 土坑 斜面貝層 土器分布(3D)

2-4 遺跡形成中断期間

遺跡形成は中期加曽利EⅢ式期までで加曽利EⅣ式土器は見いだせないとのことです。後期の遺跡形成は称名寺式終末から堀之内1式期にかけてと考えられています。その中断した期間(遺構未検出期間)は暦年較正年代を加曽利EⅢ式期末が4600年前、堀之内式1式期始が4200年前と想定するとおよそ400年間です。

400年間にわたって有吉北貝塚は放棄された土地であり、その間に中期遺構は半ば土に埋まったと想像しますが、後期にやってきた縄文人は歩き回って400年前の竪穴住居がどこにあるのか判っていたのだと想定できます。


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