2021年1月5日火曜日

有吉北貝塚 後期土器

 縄文社会消長分析学習 68

有吉北貝塚の発掘調査報告書掲載情報の分析的学習をはじめています。有吉北貝塚のメインは圧倒的に中期ですが、その学習のウォーミングアップを兼ねて早期、前期、後期の遺構・土器を学習しています。この記事では後期土器について学習します。

1 有吉北貝塚の後期土器

発掘調査報告書では「後期では、称名寺式終末から堀之内1式期にかけて、小規模ながら遺跡形成が行われる。」「本遺跡出土資料は堀之内1式土器が本地域において主体的な存在となる過程を見出す上で、少なからず寄与するものと考えられる。」と記述されています。出土土器で土器形状を復元できるものなどの例を次に示します。


出土後期土器 実測図

有吉北貝塚発掘調査報告書から引用


出土後期土器 写真

有吉北貝塚発掘調査報告書から引用


出土後期土器 写真

有吉北貝塚発掘調査報告書から引用

2 感想

発掘調査報告書に掲載されている後期土器の形状や文様が「確かに堀之内1式土器だ」とか「確かに後期土器の特徴を備えている」という感想(予感)を自分は持つことが出来ません。いつぞやにはそのような感想(予感)を持てるように精進したいです。

自分がイメージしている堀之内1式土器は次のようなものです。


50.堀之内貝塚出土。谷貞三氏蔵

山内清男編「日本先史土器図譜」から引用


堀之内式1式土器 ア 千葉市加曽利貝塚出土 加曽利貝塚博物館展示 ガラス越し撮影


堀之内式1式土器 イ 千葉市加曽利貝塚出土 加曽利貝塚博物館展示 ガラス越し撮影

3 参考 堀之内1式土器の千葉県分布


堀之内1式土器の千葉県分布

中期千葉縄文社会が崩壊して、その空白を埋めるように山梨や東京三多摩方面から人々が東に移動し、千葉に入植した人々が堀之内1式土器を使ったと妄想しています。市川に堀之内1式土器の分布中心があるのはそのような事情(奥東京湾の水面・湿地を越えた下総台地における橋頭保)を妄想。

4 参考 大膳野南貝塚との関係

有吉北貝塚近隣における堀之内1式期の遺跡がどのように分布していて、それらの遺跡と有吉北貝塚との関係学習は追っていつか行うことにします。ここでは以前学習した大膳野南貝塚との関係を参考までにみてみます。


参考 有吉北貝塚と大膳野南貝塚の位置


参考 大膳野南貝塚と六通貝塚の時期別竪穴住居数

大膳野南貝塚のピークは堀之内1式期で、竪穴住居は47軒検出しています。47軒が一度に存在していたわけではありませんが、おそらく2桁の竪穴住居が存在した拠点的集落であったと考えられます。この大膳野南貝塚から直線距離2.5㎞の位置に有吉北貝塚が存在します。有吉北貝塚検出1軒の竪穴住居の住人は大膳野南貝塚か、別の集落かは別として、近隣拠点集落との強い結びつきを持っていたことは確実です。なぜ有吉北貝塚に堀之内1式期に1軒だけ竪穴住居ができ人が居住したのかという自分の疑問は、とりあえずの仮説として、次のように考えておくことにします。

「堀之内1式期頃多くの人々が拠点市川から東京湾岸の漁労好適地を目指して東の方向を進み入植活動を展開した。村田川河口部右岸付近を好適漁場と考えた集団は大膳野南貝塚などに入植した。その人々は後からくる入植者集団に土地(漁業権など)を奪われないために、占有空間の各所に出先詰所(ミニ集落や単独家族)を配置した。有吉北貝塚には単独家族を配置し、1軒の竪穴住居を建設し、自分たち集団の既得権(漁業権、狩猟権、植物採集権…)が完全に確保できるまでそこに住まわせた。」


0 件のコメント:

コメントを投稿