2012年11月7日水曜日

軽便鉄道架橋跡に橋脚(橋台)は残っているか?

20121031記事「未明の花見川散歩」に海老川乱歩さんからコメントをいただき、軽便鉄道架橋跡に橋脚が残っているというURLを教えていただきました。
もし本当なら興味深いことですが、これまでその場所に特段の地物を見かけていなかったので、謎が深まっています。
次の写真は11月4日に撮影した西岸です。

軽便鉄道架橋跡付近の西岸風景

この付近に昭和10年代に鉄道連隊が設置した軽便鉄道の橋脚があることになるのですが、草が一面に繁茂していて、その下にコンクリート製の橋脚があることは確認できません。

なお、この架橋地点背後には下水道施設があり、グーグルアースなどで確認できます。また、その施設の管理のために西岸の台地上(丁度捨土土手の付近)に弁天橋から管理用道路があります。
この道路を通って現場まで行けるのですが、崖に入ることは困難です。

西岸架橋地点付近の下水道施設

過去の写真を調べたら今年の1月24日の積雪の風景写真がみつかりました。

軽便鉄道架橋跡付近の冬季の西岸風景

雪は仮になくてもほとんど枯草におおわれていて、その下に何があるのか判然としません。
この場所は冬季だけでも何十回となく歩いているので、もし枯草の下にコンクリート製の構造物があればわかりそうなものですが、これまで気が付きませんでした。
謎は深まります。

次の地図は昭和40年に農林省が印旛沼開発のために測量した地図で、その後水資源開発公団に移管された資料です。最近水資源機構から提供していただいたものです。

昭和40年測量地図

この地図には軽便鉄道跡が両岸とも出ていて、西岸には橋台らしきものが出ています。
軽便鉄道の軌道幅は60㎝で、この地図の橋台幅は1.5m程度です。
もし橋脚が残っているとすると、幅が1.5m程度のものです。

海老川乱歩さんに紹介していただいたURLに出ている写真をよく見ると、現在の道路等の橋脚と同じような大きさのコンクリート構造物のように見えます。

この場所に軽便鉄道の橋脚(橋台)があるのか、別の施設があるのか、土の崖をコンクリートと見間違っているのか、謎が深まります。

2012年11月6日火曜日

捨土土手の縦断形 その2

天保期印旛沼堀割普請の土木遺構の詳細検討 その19

22 捨土土手縦断形の解釈・検討
捨土土手が乗る地形面の概略を次の図に書き込みました。

捨土土手が乗る地形面(東岸)

BからCに向かって下総上位面→下総下位面→武蔵野面(古柏井川谷底)と階段状に下るように変化します。
地形面が一番高い下総上位面では捨土土手の比高は小さく、下総下位面と武蔵野面では比高が5m以上のところもあり、大きくなっています。

なお、戦前に作られ、戦後撤去された陸軍軽便鉄道の花見川架橋地点では捨土土手が掘削されています。

捨土土手が乗る地形面(西岸)

下総上位面が分布する場所の前後に下総下位面(下総上位面を削る浅い谷)が分布していますがこの付近の捨土土手の比高は1~2m程度で低いものとなっています。
C、D付近の下総下位面には2~3m程度の捨土土手があります。
武蔵野面(古柏井川谷底)のところで捨土土手の比高が大きくなっています。この部分は標高が低いので捨土しやすかったためです。
西岸には陸軍軽便鉄道架橋地点ともう一か所(おそらく戦後期に)捨土土手を掘削した場所があります。

東岸と西岸を比べると、東岸の方が捨土土手の比高が大きくなっています。これは、東岸のほうが西岸より地形面が低いところが多いためです。
この関係、つまり両岸の地形面のうち低い方の地形面により多く捨土するという関係、を詳しくみると次の図のようになります。

地形面の高低と捨土土手比高の大きさの関係

この図はB-C区間の55断面を対象にして、東岸と西岸の地形面の高度の高低と捨土土手の比高の大きさを比べたものです。
なお、後代の掘削の影響を受けている5断面は影響前の姿を復元してカウントしました。

東岸と西岸の地形面の高さを比べて、低い方を選んでそこに掘り出した土を集中して捨土して土手を築いたことがこの図から証明されます。次のイラストで示されるように、全て人力で行う工事ですから、当然の成り行きです。

掘削した捨土を土手まで運搬している姿を描いたイラスト
続保定記掲載イラスト
「天保期の印旛沼堀割普請」〔千葉市発行〕より引用

A-D区間を対象にすると、捨土土手の比高は最大6.3m(東岸)、平均3.0m(東岸平均4.0m、西岸平均2.3m)となります。

つづく

*      *      *

捨土土手の平面分布、横断形状、縦断形状等が明らかになってきました。
次回の記事で、これらをいったんまとめて、このシリーズ(天保期印旛沼堀割普請の土木遺構の詳細検討)に区切りをつけたいと思います。

2012年11月3日土曜日

捨土土手の縦断形 その1

天保期印旛沼堀割普請の土木遺構の詳細検討 その18

21 捨土土手縦断グラフの作成

天保期印旛沼堀割普請の土木遺構である捨土土手の縦断形をグラフにしてみました。

地形横断図上で把握できる、捨土土手の最高点と基部の各標高(10㎝単位)を求めました。

地形横断図上の捨土土手の最高点と基部の位置

捨土土手の最高点と基部を結んだ縦断線を平面図にプロットすると、次の図になります。
なお、弁天橋付近より北の飛び地状に残っている捨土土手はこの検討には含めていません。

捨土土手最高点と基部を結んだ縦断線

捨土土手最高点と基部の標高、及び捨土土手の比高(最高点標高-基部標高)をグラフで表すと次のようになります。

東岸の捨土土手縦断図

西岸の捨土土手縦断図

この縦断図の解釈及び検討を次の記事で行います。

つづく

2012年10月31日水曜日

未明の花見川散歩

一定時刻に起床して早朝の花見川散歩を楽しんでいたら、いつの間にやら未明の散歩となり、出会う人もめっきり少なくなりました。

5時半頃になると東の空が少し赤くなります。

弁天橋から見た国道16号沿いガソリンスタンドの光
平成24年10月30日5:25

弁天橋
平成24年10月30日5:27

満月の光に照らされた花見川サイクリングロードを独り占めして散歩している今日この頃です。

花見川堀割から見た満月と星
平成24年10月31日5:23

花見川堀割から見た満月と星
平成24年10月31日5:26

最近は、この時間には少し川霧が出るようになりました。

すこし川霧がかかった花見川
平成24年10月30日5:41

散歩が終わるころ、東の空がきれいで、眺めるのが楽しみです。

6時ごろの東のそら
平成24年10月30日6:01

2012年10月25日木曜日

光回線のセールス電話に感謝

自宅にNTTフレッツ光回線を売り込むセールス電話が何回もかかってきました。 当方では電話セールスを相手にすることはないのですが、家族が対応してしまいしつこい電話攻勢があり、電話代が安くなるということが事実であるか検討するはめになりました。
当方の回線は数年前にauのギガ得プランという商品を購入しており、光電話とインターネット回線を利用しています。電話セールスの会社が押す商品はNTTフレッツ光にねん割プランという商品で、同じく光電話とインターネット回線です。 しぶしぶ商品の比較をしてみると、auのインターネット回線のスピードは1ギガ(Gbps)、NTTは200メガ(Mbps)であることが判明しました。auの方が5倍もスピードの速い回線サービスを提供しています。
価格は若干NTTの方が安いのですが、インターネット回線を利用することも多く、auを引き続き利用することにし、セールス電話をしてきた会社にはお引き取り願いました。

さて、若干の価格の差異については当初からあまり興味が無かったのですが、この一件で、インターネット回線のスピードについて気がかりになりました。早速auの技術研究所に電話し、当方自宅のインターネット回線の実際のスピードについて調べてもらいました。

調査は電話での問診があり、パソコンと回線との接続の仕方を変化させるなどしてスピードを測定する方法です。

結果として次のようなことが判りました。

●いままで使ってきた(古い)LANケーブル・ハブ経由の場合:
下り回線速度 54.76 Mbps
上り回線速度 94.90 Mbps

(古い)LANケーブル・ハブ経由での回線速度測定結果
Radish Network Speed Testing による

●au設置ルーターから直接(新しい)LANケーブル経由の場合:
下り回線速度 495.8 Mbps
上り回線速度 519.7 Mbps

直接(新しい)LANケーブル経由での回線速度測定結果
Radish Network Speed Testing による

つまり、宅内のLANケーブル・ハブ等の性能が悪いため100メガ(Mbps)以下の性能しか使っておらず、提供を受けている本来の性能である1ギガ(Gbps)は全くの宝の持ち腐れであったことが判明しました。

早速新しいLANケーブル(カテゴリー6)に取り換え、ハブ等の経由機器をなくしたところ、本来の性能である400 Mbps台~600 Mbps台の性能を享受できるようになりました。

体感的にも、WEB利用上「シャキーン」という言葉が合う操作感覚になり、サクサク感が気持ちよくなることも多くなりました。

電話回線売り込みの熱心なセールス電話にはまいりましたが、結果としては自宅LAN環境の不備に気づくことができ、セールス会社には密かに感謝している次第です。

2012年10月21日日曜日

印旛沼堀割普請の土木遺構説明板の設置

昨日の早朝散歩で、花見川に沿う小開発地(花見川区柏井町)で、「印旛沼堀割普請の土木遺構説明板」の設置工事が進んでいることを確認できました。
まだ工事途中のようですが説明板としての姿が現れましたので、写真を撮りました。

小開発地に設置工事中の「印旛沼堀割普請の土木遺構説明板」

小開発地は工事がほぼ終わり、現在販売中です。

小開発地に設置工事中の「印旛沼堀割普請の土木遺構説明板」

写真左(西側)が花見川で、右(東側)から朝日が差し込んでいます。写真奥は横戸緑地です。

この土木遺構説明板は当方から開発業者にお願いし、横戸台自治会とも連携して実現しました。
看板のコンテンツは当方で作成しました。
コンテンツ作成にあたって千葉市立郷土博物館、山形県教育委員会、山形県酒田市在住久松龍子氏の協力を得ました。

説明板のコンテンツ

この説明板設置に係る報告は改めて記事にする予定です。

2012年10月14日日曜日

北柏井村における土置場筋と捨土土手の関係

天保期印旛沼堀割普請の土木遺構の詳細検討 その17
20 土置場筋と捨土土手の関係
「天保13年試掘時の北柏井村堀割筋略図」を旧版1万分の1地形図に投影して作成した北柏井村の土置場筋(土置場ゾーン)分布と現在観察できる捨土土手分布を重ねてみました。

北柏井村における土置場筋と捨土土手の分布

西岸は土置場筋の北半分に実際に捨土土手がつくられたことが確認できます。
東岸は村の北側に一部だけ土置場筋の外側にずれていますが捨土土手がつくられたことが確認できます。

北柏井村は幕府に、人家等を除いた堀割筋両岸全川に渡る土置場ゾーンを設定し、報告した(させられた)のですが、実際に捨土土手がつくられたのは距離にして約4割です。

なぜこういう結果になったのか、次図に示す地区区分をして、検討してみました。

次図は北柏井村の堀割筋を3地区に区分したものです。

北柏井村の堀割筋3地区区分図

ア 高台地区の捨土土手
高台地区はもともと東京湾水系花見川と古柏井川の谷中分水界があった場所です。その地形イメージを示すと次のようになります。

高台地区の印旛沼堀割普請前の地形イメージ

天保13年試掘時にはすでに天明期普請により谷中分水界付近はかなり掘り下げられていたと考えられますが、さらに掘り下げる場所です。
当然のことながら掘った土は土置場に捨てて捨土土手をつくります。

イ 中間地区の捨土土手
中間の意味は高台地区と化灯土地区の中間という意味です。
この地区では谷底自体を掘り下げるという工事の意味合いは徐々に薄れてきて、土置場に捨てる土量も少なくなります。
少なくなった土は運びやすい西岸に捨てたのだと思います。
この付近の西岸台地は下総下位面(浅い谷)になっていて、東岸の台地(下総上位面)より5m程低くなっています。

中間地区の捨土土手
16番断面

ウ 化灯土地区の捨土土手
化灯土地区は花見川谷底が広くなり、谷底全体の高度を下げるという工事は行われず、谷底の中で水路を掘り下げるという工事が行われたと考えられます。
次のイラストは久松宗作著「続保定記」(「天保期の印旛沼堀割普請」〔千葉市発行〕収録)に掲載されているもので、化灯場で工事が難航している様子を描いています。
現在の柏井橋付近の工事現場で、右奥が下流の花島方面です。

新兵衛七九郎丁場化灯の場廻し堀いたし水をぬぐ図
久松宗作著「続保定記」収録図
「天保期の印旛沼堀割普請」〔千葉市発行〕より引用

工事をしやすくするために、足踏水車で水を流して河床を乾燥させ、化灯土を掘り出し、脇の平地に置いている様子が描かれています。
天明期の工事杭が描かれているとともに、技術者が幕府役人に対して、馬糞のような化灯土に三間竿(約5.4mの竿)を挿しながら「ドコ迄も入マス」と報告しています。

このイラストから確認できるように、化灯場では、高台地区と比べると掘る土量自体は少なく、土置場を利用して捨土することは無かったと考えられます。

また、馬糞のごとき(固まらない)化灯土の処理の方法として「流堀り」工法が執られていたことも考えられます。「流堀り」工法とは人力ではなく、水を堰上げして一挙に流しその流水パワー(人工洪水パワー)で化灯土を掘削流下させるものです。
「流堀り」工法は、当時は秘事の技術であり、松本清張の「天保図録」で堀割普請終盤における目付鳥居耀蔵と老中水野忠邦との確執部分で登場します。

「流堀り」工法が執られたので、捨土すべき土量はさらに減少したとも考えられます。

つづく

2012年10月13日土曜日

「天保13年試掘時の北柏井村堀割筋略図」の1万分の1地形図投影

天保期印旛沼堀割普請の土木遺構の詳細検討 その16

19 「天保13年試掘時の北柏井村堀割筋略図」の1万分の1地形図投影

ア 略図の村境界イメージの正確性
次に「天保13年試掘時の北柏井村堀割筋略図」の影印を再掲します。

「天保13年試掘時の北柏井村堀割筋略図」の影印
天保期の印旛沼堀割普請(千葉市発行)より引用

次に北柏井村と隣村との境界を示した資料を掲載します。

北柏井村の境界
「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」(千葉市発行)掲載資料を引用編集し注記等を追記
ベースマップは迅速2万地図(明治15年測量)

上記の略図と村境界線を比べると、略図の堀割に対する境界線の角度のイメージがありのままに投影されていることがわかります。
略図ではありますがそこに村の地形(地理)を正確に表現していることに、天保期村役人の土木図書(略地図)作成技術のレベルの高さに感心します。

イ 略図の旧版1万分の1地形図への投影
略地図の土置場ゾーン(筋)の形状を決めている私領屋敷等の注記の場所を旧版1万分の1地形図と対応させてみました。

私領屋敷等の対応

略図における5箇所の注記の場所は、旧版1万分の1地形図(「三角原」図幅、大正6年測量)上の地物と間違いなく対応させることができます。
この対応関係がとれたので略図の堀割ゾーン(筋)と土置場ゾーン(筋)を旧版1万分の1地形図に投影することが可能となります。

次の図は私領泉蔵寺の場所における花見川谷底の水田と笹地(微高地)の境から16m(=凡そ8間)の距離をGIS上で計測し、そこが丁度泉蔵寺敷地の端付近になっている画面です。

GISにおける距離計測画面

略図には私領泉蔵寺の前の土置場ゾーン(筋)の巾は「右同断凡横八間」〔右と同じで(=現在ある堀の形より)おおよそ横8間(=約16m)〕と書いてありました。
「右同断」とは「当時有形之堀ゟ」ということでその意味する「当時(=現在)有る形の堀より」の堀の形の東端が旧版1万分の1地形図における水田と笹地(微高地)の境であることが、証明されました。
距離注記のある私領屋敷Bと私領屋敷Dでも同じ作業をして、同様の結果を得ました。
この作業結果から、天保13年試掘時の堀割平面形状(つまり天明期堀割普請の跡)は大正6年においても同じ場所であり、大正6年測量地図で水田として利用されていた場所であることが判ります。
そこで、旧版地形図の谷底水田を堀割ゾーン(筋)と見立て、土置場ゾーン(筋)を距離に関する注記に従って、旧版地形図上に投影することが可能となります。 次がその結果です。

「天保13年試掘時の北柏井村堀割筋略図」の1万分の1地形図投影

次に、この略図(本格工事前の工事ゾーン区分図)と現在観察できる天保期普請捨土土手分布との関係を考察します。

つづく

2012年10月8日月曜日

「天保13年試掘時の北柏井村堀割筋略図」の地図構成 下

天保期印旛沼堀割普請の土木遺構の詳細検討 その15

18 「天保13年試掘時の北柏井村堀割筋略図」の地図構成 下
ウ 地理情報部分④~⑦の説明

それぞれの抽出図を作成して説明します。

④ 「ゾーン(筋)の表示と注記」の抽出図

この略図の主題である堀割ゾーン(堀割筋)と土置場ゾーン(土置場筋)を線で囲むとともに、その名称を書き込んでいます。
堀割ゾーン(堀割筋)の巾は両側それぞれの土置場ゾーン(土置場筋)の片方より広く描かれていますが、その距離等を示す情報はありません。
また、単純な形状で描かれています。

堀割ゾーンの意味するものは、天明期に工事の行われた堀(堀割)であり、その実体は花見川の谷底平野を多少掘り下げた地形であると考えます。
谷底平野を多少掘り下げた地形であり、しっかりした形状をしているため、この略図では単純な形状で描かれているのだと思います。

土置場ゾーンの外側の線が入り組んでいます。この入り組んだ線がこの略図で一番大切な情報です。
土置場になる場所とならない場所を示しています。

⑤ 「ゾーン(筋)の位置データ」の抽出

東岸の一番上の文字は次の通りです。

当時有形之
掘ゟ
横三十五間

この文は次のように読みました。
現在ある堀の形より横35間(=35×1.8182m=約64m)

その下に次の3つ情報が書いてあります。

右同断

横三十間

右同断

横五間

右同断

横八間

それぞれ次のように読みます。
右と同じで(=現在ある堀の形より)おおよそ横30間(=約55m)
右と同じで(=現在ある堀の形より)おおよそ横5間(=約9m)
右と同じで(=現在ある堀の形より)おおよそ横8間(=約16m)

西岸の土置場ゾーンにも同じ情報が4つ書いてあり、上から次の文字が書かれています。

当時有形之
掘ゟ
横四十間

当時有形之
掘ゟ

横三十間

右同断

横八間

右同断

横三十間

それぞれ次のように読めます。

現在ある堀の形より横40間(=約73m)
現在ある堀の形よりおおよそ横30間(=約55m)
右と同じで(=現在ある堀の形より)おおよそ横5間(=約9m)
右と同じで(=現在ある堀の形より)おおよそ横30間(=約55m)

⑥ 「ゾーン(筋)の特徴ある分布を説明する注記」 は土置場を避ける部分の注記が書かれています。

東岸は上から
私領屋敷
私領屋敷
私領泉蔵寺

西岸は上から
私領屋敷
私領屋敷
が書かれています。

⑤の8つの情報(データ)と⑥の注記を抜き出すと次図のようになります。

土置場の幅

この図により土置場の形状変化の理由とその幅がわかります。

次の記事でこの土置場の範囲を現代の地図上にプロットしてみたいと思います。
私領屋敷は戦前地図で比定できそうです。また泉蔵寺も旧版1万分の1地形図にその名称が掲載されています。

なお、東岸の上から2番目の私領屋敷の「右同断凡横三十間」(右と同じで(=現在ある堀の形より)おおよそ横30間(=約55m))の30間は誤記であると考えられます。3間が正しいと直感しています。
1晩で作成した書類であり、急な仕事の中でミスが生じてもなんら不思議ではありません。なお、このミスはこの下書きだけのものであるかもしれません。

⑦ 「ゾーン(筋)外の特別注記」の抽出図

ゾーン外に書かれた特別注記です。
次の同じ文字が横戸村境付近のゾーン外東岸と西岸に書かれています。

私領地此所土置場有之

この文の意味は(北柏井村の土置場ゾーンとして設定した場所の外側で、横戸村境付近の)私領地に土置場が(既に)有る。ということです。

この略図が書かれた8日前からこの略図と接する横戸村で試掘(ココロミホリ)が行われていますので、その土置場がここに書かれた可能性も検討しておかなくてはなりません。
しかし土置場ゾーンから離れた場所で、なおかつ避けるべき私領地で、さらに両岸に存在することから、この既存の土置場は天明期普請の土置場であると考えられます。

天明期普請の遺構の存在を示す基調な情報である可能性が濃厚です。今後精査していきたいと思います。

次の記事で、この略図を現代地図上にプロットし、現在観察できる土木遺構(土捨場)との関係を考えてみたいと思います。

つづく

2012年10月7日日曜日

「天保13年試掘時の北柏井村堀割筋略図」の地図構成 上

天保期印旛沼堀割普請の土木遺構の詳細検討 その14

17 「天保13年試掘時の北柏井村堀割筋略図」の地図構成 上
ア 略図の構成要素
「天保13年試掘時の北柏井村堀割筋略図」は次の①~⑦の要素から構成されていると判断できます。

【略図の構成要素】
●整飾(地理情報を理解するために必要な情報)部分
① この略図の意味に関するメモ書き
② 制作年月日と制作者
③ 位置関係を表示する注記
●地理情報部分
④ ゾーン(筋)の表示と注記
⑤ ゾーン(筋)の位置データ
⑥ ゾーン(筋)の特徴ある分布を説明する注記
⑦ ゾーン(筋)外の特別注記

次に、それぞれの構成要素を整飾部分①~③と地理情報部分④~⑦に分けて説明します。

イ 整飾部分①~③の説明

整飾部分①~③の抽出図

①と②は線で囲み、①~③ともに赤字で示しました。

① この略図の意味に関するメモ書き
次の文字が書かれています。

御試堀御用之節
天保十三寅十月廿二日
御代官篠田藤四郎様御手代
吉田菅助様馬加村吉右衛門御旅宿
御用先江差上申相納候下書
            組頭
           治兵衛行

この文字を次のように理解しました。

試掘実施に際して、天保13年10月22日に代官篠田藤四郎様の部下である吉田菅助様を馬加村吉右衛門の旅宿に訪ね、差上げ納めてもらった書類の下書きである。組頭治兵衛が行った。

「天保改革と印旛沼普請」(鏑木行廣、同成社)によれば試掘について次のような趣旨の記述があります。
10月には横戸村付近の高台と花島村で試掘を実施した。試掘は10月14日に鍬入れとなり、代官の篠田藤四郎が担当し、勘定奉行の梶野土佐守良材らが視察した。 10月21日には馬加村に堀割筋となる村々から村役人を呼び出し、普請の趣旨を諭して印を押させた。

略図の日付は堀割普請に同意した(印を押した)翌日ですから、この略図の趣旨は要望とか陳情というものではなく、同意した工事の土置場について、翌日早速その概略提供位置を報告した(させられた)ものだと思います。

略図を描く作業量そのものは1晩で十分だとは思いますが、土置場の位置の選定のために熟慮する時間は与えられず、また、土置場の位置を示す8箇所の測量データ作成の時間も与えられていません。村の地勢を熟知した人々がこの書類を作成したので、測量はしないで、目検討のデータを記入したのだと思いますが、それにしても急な作業をしたものです。この略図は、お上からの指示に基づき強引に提出させられた資料であると考えます。

② 制作年月日と制作者
次の文字が書かれています。

寅十月廿二日
下総国千葉郡北柏井村
名主 新右衛門
組頭 治兵衛
百姓代 孫右衛門

この書類は、村の執行部が責任をもって幕府に土置場を提供した証文になっています。

③ 位置関係を表示する注記
午(南の意味)がおそらく朱書きで一段と大きく、東西北とともに書かれています。
弥村は、北柏井村の主要部分がこの位置(堀割筋の西側)にあることを示しています。
隣村である横戸村、花島村、南柏井村との境を示す注記も書かれています。

つづく