2020年6月25日木曜日

神津島黒曜石陸揚地の見高段間遺跡

縄文社会消長分析学習 30

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)で交換・交易について学習し、その中で神津島黒曜石の陸揚地が見高段間遺跡であることを知りました。
ブログ「芋づる式読書のメモ」2020.06.16記事「広域交換・交易
早速見高段間遺跡概説書(池谷信之著「黒潮を渡った黒曜石 見高段間遺跡」(2005、新泉社))を読んで、自分なりの思考を楽しみましたので、その結果をメモします。

1 神津島黒曜石陸揚地としての見高段間遺跡
・神津島からの丸木舟による帰路航海での海流影響や目標地形等から見高段間遺跡地点が黒曜石陸揚地として選定されたと考えられる。
・見高段間遺跡では、中期後半には伊豆半島で類例のない環状集落がつくられ、神津島黒曜石採鉱の本土拠点・陸揚地・出荷地という交易機能特化型生活が営まれました。
・環状集落を営んだ人々は土器胎土分析から神奈川県西部地域と交易して土器を入手していたようです。したがって黒曜石は神津島→見高段間遺跡→神奈川県西部地域→関東平野という交易ルートが考えられます。

見高段間遺跡の盛衰
池谷信之著「黒潮を渡った黒曜石 見高段間遺跡」(2005、新泉社)から引用
加賀利は加曽利の誤字
加曽利E3式は加曽利EⅡ式に対応すると想定します。

見高段間遺跡の盛衰は関東地方西南部の盛衰と軌を一にしていたと想定します。

関東地方西南部における竪穴住居跡数の推移
「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」から引用

2 黒曜石原産地組成における神津島黒曜石の割合

黒曜石原産地組成における神津島黒曜石の割合 縄文中期前半
池谷信之著「黒潮を渡った黒曜石 見高段間遺跡」(2005、新泉社)から引用
縄文中期前半は見高段間遺跡の遺構・遺物の量が虚弱であることから、この遺跡を経由しないで神津島黒曜石が採掘され流通していたと考えられています。
まだ人口急増前ですから神津島黒曜石だけで関東平野縄文社会の黒曜石需要を賄っていたと考えられます。

黒曜石原産地組成における神津島黒曜石の割合 縄文中期後半
池谷信之著「黒潮を渡った黒曜石 見高段間遺跡」(2005、新泉社)から引用
この時期が見高段間遺跡の最盛期です。見高段間遺跡を拠点に多量の黒曜石が出荷されたと考えられますが、需要に追いつかず信州系の黒曜石が多量に流入しています。この時期に信州では黒曜石採掘の再開発が盛んにおこなわれたと考えられています。

3 石器組成と黒曜石重量の時期変化
この図書に石器組成と黒曜石重量の時期変化グラフが掲載されています。

石器組成と黒曜石重量の時期変化
池谷信之著「黒潮を渡った黒曜石 見高段間遺跡」(2005、新泉社)から引用
前期中葉から中期後半古までの期間に狩猟系石器の割合が減り、採取系石器の割合が増えます。住居1件あたりの黒曜石重量も減少します。

これは、植物質食糧をより一層効率的に入手して人口を増やすことができるシステムが生まれたことを表現しています。
逆にいえば、人口増により植物質食糧の割合を増やさなければ人口を養っていけない様子が反映されていると考えます。

狩猟により得た獣肉が「ときどき腹を満たす食べ物」から、「貴重なおかず」になり、最後は年間何回も食べられない「珍味」になっていった様子を表現していると考えます。中期後半新は人口急減後の狩猟復活期の様子を表現しています。

なお、前期中葉から中期後半古までの期間に狩猟系石器(特に黒曜石)の需要が急増したことはこのグラフには表現されていません。
多くの人々が黒曜石を渇望し、手にいれた黒曜石により石鏃をつくり狩猟をしてもみんなが獣にありつけないという状況(狩猟民としてみれば環境危機状況)が存在していたと考えます。


神津島と見高段間遺跡の位置 地理院地図3Dモデル
写真、垂直倍率×9.9



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