2020年7月15日水曜日

加曽利貝塚中期・後期の祭祀遺物量比較

縄文社会消長分析学習 39

1 はじめに
列島中央高地では縄文中期から、関東貝塚地帯では縄文後期からそれ以前とは異なる土偶祭祀が始まり、生活の中における祭祀活動全般が特段に盛んとなり列島縄文社会の新たな特性となったという素人破天荒な学習仮説を作りました。(注 学習仮説…学習促進を目的とする仮説)

この仮説では縄文中期の関東貝塚地帯では中部高地から渡来した土偶祭祀(破壊することを目的に土偶を作り、破壊することによって祈願する祭祀)を意識的に拒否していたエピソードに着目しています。

このような仮説が自分の頭脳に渦巻いている時、「史跡加曽利貝塚総括報告書」(千葉市教育委員会)をパラパラ見ていると「エッ!」「エッ!」と次から次へと縄文中期と後期の祭祀遺物量の違いが驚きを伴って現出しましたので、メモします。

2 加曽利貝塚の北貝塚と南貝塚

加曽利貝塚の北貝塚と南貝塚
「千葉県の歴史 資料編 考古1」(千葉県)から引用・編集

加曽利貝塚の北貝塚と南貝塚の時期
「史跡加曽利貝塚総括報告書」(千葉市教育委員会)から引用・加色

北貝塚は縄文中期にアクティブであった、南貝塚は縄文後期にアクティブであったと大局的にとらえて間違いはありません。

3 土偶と他の土製品について

土製品集計
「史跡加曽利貝塚総括報告書」(千葉市教育委員会)から引用
北貝塚の土偶数8にたいして南貝塚71で大きな開きがあります。土版も同様です。縄文中期に珍しかった土偶祭祀が後期には盛んになります。
耳飾は装飾品として分類されますが、この数も大きな開きがあります。縄文後期になると生活が華美になった様子がよくわかります。土偶祭祀の隆盛と華美な生活は別現象ではなく、お互いに通底している文化現象であると考えます。
一方、食糧獲得活動の道具である網に使われた土器片錘の量は北貝塚で多く、南貝塚で極端に少なく、他の土製品と比べて攻守逆転します。縄文中期に盛んであった網漁が後期には衰微しています。後期の網漁衰微の理由は次のような可能性を今後検討することにします。
ア 海況変化による漁業不振なのか。
イ 出先の配下村に生業を任せていたのか。
理由はともあれ、土製品でみると祭祀や装飾品が増え、生業道具が減っています。

4 石器・石製品について

石器・石製品集計
「史跡加曽利貝塚総括報告書」(千葉市教育委員会)から引用
打製石斧と磨製石斧の数が北貝塚で多く、南貝塚で少なくなっています。つまり縄文中期にはそれらは多く使われ、縄文後期には少なく使われているということです。
打製石斧が芋ほりなどに使われ、磨製石斧が樹木伐採や製材などに使われていたと考えると、中期に比べて後期は食糧獲得や住宅建設活動が虚弱化しているように感じられます。しかし、加曽利貝塚南貝塚集落は地域拠点であり、大型住居などもありエネルギー溢れる集落です。食糧消費や建築活動が活発なのですから、その道具出土が少ないということは、加曽利貝塚南貝塚配下の周辺村落の人々が食糧獲得とか建築活動を行っていたからであると想像できます。

石皿や台石の出土量は北貝塚と南貝塚でほとんど同じです。これは食事をする際に当事者が必要とする道具だからであると考えます。南貝塚の人々は生業活動の一部をアウトソーシングしていたと想像できます。

祭祀道具である石棒は北貝塚にくらべて南貝塚が大変多くなっています。縄文中期とくらべて後期は祭祀活動が大変活発になったと考えられます。

石器からみると、加曽利貝塚縄文後期社会では生業をアウトソーシングしてその分祭祀活動を活発に行っていたと読み取れます。

5 貝刃と貝輪について

貝刃の素材貝腫
「史跡加曽利貝塚総括報告書」(千葉市教育委員会)から引用
貝刃は漁業収穫物の加工や調理につかわれた漁民のナイフ・包丁であると考えられます。
この貝刃の数量が北貝塚で多く、南貝塚で少なくなっています。土器片錘と同じ傾向であると考えることができます。漁業活動もアウトソーシングしていた可能性が考えられます。

貝輪の素材
「史跡加曽利貝塚総括報告書」(千葉市教育委員会)から引用
貝輪は装身具として分類されますが、その数量は貝刃と反比例して北貝塚で少なく、南貝塚で多くなっています。つまり縄文後期に貝輪が多くなっています。さらに、多くなるだけでなく、オオツタノハやベンケイガイなど遠方で専門集団しか採集できない高級品が増大しています。この貝輪データから中期と比べて後期の加曽利貝塚集落は大変華美な生活をしていたことがわかります。

6 骨角歯牙製品

骨角歯牙製品集計
「史跡加曽利貝塚総括報告書」(千葉市教育委員会)から引用
骨角歯牙製品出土量でも北貝塚で少なく、南貝塚で多いことが顕著です。縄文中期よりも後期の方が生活が華美になっています。

7 感想
加曽利貝塚では縄文中期(北貝塚)と比べて縄文後期(南貝塚)では本来存在すべき生業をアウトソーシングして時間とエネルギーを温存し、その分を祭祀活動や華美な生活にあてています。
地域社会全体では、周辺子集落が生業で稼いで、その稼ぎで加曽利貝塚集落が食糧と祭具・装飾品を入手していると考えざるをえません。加曽利貝塚集落は周辺子集落に祭祀面で反対給付をしていたと考えられます。

縄文中期に中央高地で発した土偶祭祀は地母神殺害再生神話という高度でかつ分かりやすい思考を伴っていたため、また外来思考であるというエキゾチック性も大いに魅力となり、人々の心を深いところでつかみ取ったのだと思います。

同時に神話による祭祀を執行し生業はある程度免除されるものと、祭祀恩恵を享受しつつ生業を行う一般住民の分化がうまれ、それにより社会分業体制やネットワークが形成されたと想像します。社会の階層化も生まれたと想像します。

8 感想 2
加曽利貝塚で北貝塚と南貝塚の2つが存在する意味について今後深く学習したいと思います。同じ集団が2つの貝塚を作ったとは到底考えられません。北貝塚をつくった集団(加曽利EⅡ式ピーク)が滅び、全く別の集団がこの地に入り込み、加曽利貝塚拠点性を継承したものと想像します。なぜ滅んだのか、どのから別集団が入り込んだのか、その経緯学習を楽しみにしています。

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