2020年7月29日水曜日

縄文中期千葉土偶に興味を深める

縄文土器学習 440

1 「千葉県内における土偶の変遷」図を見つける
加曽利貝塚博物館展示物の中に次の「千葉県内における土偶の変遷」図と「加曽利貝塚出土の土偶」説明文をみつけました。

「千葉県内における土偶の変遷」
加曽利貝塚博物館展示パネルから引用

「加曽利貝塚出土の土偶」
加曽利貝塚博物館展示パネルから引用

その内容を咀嚼し、縄文中期房総における土偶希少性と中部高地の房総遠征、その後の土偶祭祀盛行にますます興味が深まりました。2020.07.15記事「房総における縄文中期土偶の検討課題」のつづき記事になります。

2 中期千葉の土偶希少性と中部高地由来河童形土偶出土の特異性
「千葉県内における土偶の変遷」の中期分には5点の土偶が図示されていますが、いづれも顔のないものばかりです。

「千葉県内における土偶の変遷」中期分に塗色
加曽利貝塚博物館展示パネルから引用・追記

これでは中期土偶の様子がよくわかりませんから、「千葉県の歴史」(千葉県発行)で詳しく調べてみました。

千葉県の縄文中期の土偶
「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」から引用・追記

千葉県における縄文中期土偶出土は遺跡数とくらべて極めて稀です。
出土している土偶も出土数が少ないのでその文様の意味が分からないものが多いようです。
遺跡数が爆発的に増える加曽利E式期にも全体で数点の土偶(「千葉県の歴史」発行時点)しか出土していないようです。
その稀な土偶出土状況の中に中部高地の茅野市棚畑遺跡出土国宝土偶「縄文のビーナス」にも通じる河童形土偶が出土していて(しかも完形で)、驚かされます。

データは古いものになりますが、千葉県の土偶数と遺跡数を同じグラフでみると次のようになります。

千葉県土偶数と遺跡数
土偶数の数値は現在は、これよりもはるかに多いものと推定しますが、その時期分布傾向は変わらないと推測できます。遺跡数(グラフでは実数の1/10で表示)が中期→後期→晩期と減少するのですが、土偶数は中期にほとんど出土せず、後期に爆発的に増加し、晩期にも高水準を保っています。
千葉県では土偶は後期になってはじめて登場したといって過言ではありません。

3 学習課題
以上の土偶に関する情報から次の学習課題が浮かび上がります。

ア 縄文中期に千葉で出土した河童形土偶の意義
縄文中期に千葉で出土した河童形土偶は、中部高地集団(土偶祭祀をはじめて導入した集団)の遠隔地開発部隊、いわば斥候部隊の存在を表現しているのか、詳しく学習したいと思います。

イ 縄文中期に千葉で土偶祭祀が拒否された理由
縄文中期千葉における人口の爆発的増加、貝塚文化の盛行のなかで土偶祭祀が拒絶された理由はぜひとも突き止めなければなりません。
土偶祭祀を必要としていなかったことは確実に確認できます。
ただ、土偶祭祀とは別の〇〇祭祀が代替的に存在していたとは自分は考えていません。縄文中期の千葉では石棒祭祀が替わって盛んだったという文章をどこかで読んだことがありますが、石棒の出土数は少なく、おそらく違うと考えます。土偶祭祀とはつまり海外農業社会由来の外来地母神殺害再生神話による祭祀です。それは当時の縄文社会で急速に勢力を拡大する新興宗教みたいものであったと想像します。その新興宗教を拒否して伝統的な社会(=狩猟採集社会本来の神話を持つ社会)を守った(発展させた)のが中期千葉貝塚社会であったと空想します。
従って、中期千葉貝塚社会では、土偶祭祀よりも古い、より原始的祭祀が行われていたと考えます。おそらく実務生活そのものに祭祀的意義が見出されていて、余った時間は全て瞑想の時間となり、「祭祀活動」という独立した取り組み・時間はすくなかったと空想します。

ウ 堀之内式期から土偶が急増する理由
称名寺式期までは土偶がほとんど皆無で、堀之内式期から土偶が急増します。社会崩壊して称名寺式期に底をうった人口が堀之内式期に急増します。
この社会崩壊と再生の間に集団の入れ替えが行われたと想像します。
加曽利E式期に隆盛を誇った人々(土偶を拒否した人々)の持つ海岸の漁業権、林地の植物採集権(土地利用権、入会権)、猟場における狩猟権は土偶祭祀を行う人々に完全移動したと想像します。
加曽利貝塚でいえば北貝塚で集落を営んでいた集団は逃散し、あるいは新集団に服属したと想像します。新集団は南貝塚を新たな生活の場とし、そこで土偶祭祀を盛んに行ったと思います。

【余分な一言メモ】
伝統縄文社会→土偶祭祀社会に社会が総入れ替えになった時、旧集団の人々は新集団の人々の下位に位置付けられ、同じレベルの住人としては扱われなかった可能性があります。それがふさわしい用語であるかどうかわかりませんが、「奴隷」的な人々が生まれた可能性があります。
以前学習を深めた大膳野南貝塚後期集落では住居に漆喰貝層が出土する通常竪穴住居のものと、それが出土しない竪穴が不明瞭なものがありました。その住居の差から別集団が同じ集落に住んでいたと考えました。もしかしたら、上下のある二つの階層の人々が同じ集落に住んでいたのかもしれません。



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