2020年8月18日火曜日

縄文マメ類栽培評価と農耕意義

 縄文社会消長分析学習 45

小畑弘己「マメを育てた縄文人」(工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編「ここまでわかった!縄文人の植物利用」(新泉社、2014)収録)の学習を2020.8.18記事「縄文マメ類栽培」でしました。このマメ類栽培について山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)のなかでその評価が書かれていますので、その学習を行いました。

1 山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)におけるマメ類栽培研究に対する評価

ア 農耕の存在を確定させるための条件

認定条件1:対象となる作物の確定

認定条件2:作物を育てた「場」(工作地点)の確定と規模(生産量)の推定

認定条件3:専用化した農具の確定

マメ類栽培について、認定条件1はマメ科植物であるが、認定条件2の生育の「場」と規模は未確定で、炭化米のごとく炭化マメが多量に出土した例がなく、人骨同位体比にマメ類をよくたべた傾向も見られないことを指摘しています。認定条件3について、「従来の土掘り具(打製石斧など)をこれにあてる向きもあるが、明確な形での検出はむずかしいかもしれない。」と述べています。

しかし、次のように「縄文中期農耕論」の評価を覆す可能性をもっていると、含みを残しています。

「じつは、過去にも「縄文時代の農耕」が唱えられたことがあった。縄文時代中期になると、関東地方から中部高地の集落では打製石斧が数多く出土するようになる。これを農具としての鍬であったと考え、古くから「縄文時代にもイモ類などを対象とした農耕があった証拠」として議論が行われてきた。これを研究史的には「縄文中期農耕論」と呼ぶが、その評価は総じて否定的だった。マメ類の栽培は、このような評価を覆す可能性をもっているだけに、より慎重な議論が必要である。」

イ 社会構造に変化がみられるか

植物管理が高度であっても、社会構造に変化がみられなければそれは農耕、その社会を農耕社会とは呼ばないという定義からみると、マメ類主体「縄文農耕」が社会構造の変化をひきおこしたとは見られないと指摘しています。

しかし、次のような「含み」も述べています。

「ただし、八ヶ岳山麓に分布する遺跡群における墓域のあり方については、後述するように注意が必要である。」

ウ 結論

「全体論的には、マメ類を主体とする「縄文農耕」が、社会構造の変化を引き起こし、その階層化を促したとすることは現状ではできず、あくまでも従来における多角的な生業形態の一つとして導入されたものと私は考えている。このような見通しも将来的に大規模な畑の発見や、社会的格差を感じさせるような新たな墓の事例が確認されたりすれば、当然、修正しなくてはならないだろう。」

2 メモ(農耕意義に関する想像)

ア 総括

マメ類栽培は否定できない事実として提示されているので、その畑遺構出土や農具の確定は時間の問題だと想像します。

問題はマメ類がどれだけ食生活に寄与していたかということです。

「誰が見てもメジャーフードである」ということではなく、量的にはマイナーな食べ物であったようです。

イ 農耕意義に関する想像

マメ類が祭祀で使われる食べ物、神様に捧げるための食べ物であると仮説すれば、栽培技術の存在と非農耕社会が両立するような気がします。

メジャーフードには到底することができないような非効率的で手間のかかる栽培技術が、祭祀を支える重要な神様への献上物生産として行われていたのかもしれません。

畑をつくり、種をまき、世話をして、最後に収穫するという農業技術を大陸から得ていて、しかしその技術を人の食糧ではなく、神様へ献上物として使っていたのが縄文社会だったのかもしれません。

農業技術をつかって食糧を得る必要は、恵まれた自然環境のなかでなかった。また外部勢力に襲われることもないため、人口を増やす要請もなく、つまり食糧増産の必要もなかったのが縄文社会だったようです。

畑をつくり、種をまき、世話をして、最後に収穫するという根気のいる、時間のかかる、天気などのリスクの多い作業、そして高度な技術を要する作業であればあるほど、神様に献上する食べ物の調達方法としての価値があったと想像します。

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藤森英一著「縄文農耕」(学生社)

1970年初版のこの図書の趣旨が装いを大幅に変えて蘇るかもしれません。

農耕はあった。しかし、神様のための農耕だった。


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