2018年2月12日月曜日

分析作業メモ2 石器数の分布

大膳野南貝塚後期集落の出土物による竪穴住居検討 22

2018.02.11記事「分析作業メモ 中テン箱数の分布」に引き続き、大膳野南貝塚後期集落石器数の竪穴住居別分布を漆喰貝層有無別に立体グラフで観察します。

1 竪穴住居別石器数の分布

漆喰貝層有竪穴住居の石器数 1

漆喰貝層無竪穴住居の石器数 1

漆喰貝層有、無竪穴住居の石器数 1

漆喰貝層有竪穴住居の石器数 2

漆喰貝層無竪穴住居の石器数 2

漆喰貝層有、無竪穴住居の石器数 2

2 考察
漆喰貝層有竪穴住居と漆喰貝層無竪穴住居の関係という視点でみると読み取れる分布の大要は中テン箱数分布とほぼ同じであるといえます。

一方漆喰貝層有竪穴住居における石器数分布に関して、北貝層に石器数が最大の竪穴住居(J63、堀之内1式期)が存在することが特徴的です。
2018.01.18記事「石器多出竪穴住居の検討」参照
J63では石鏃出土数が5で全期竪穴住居の中で2番目に多く、また剥片類17、黒曜石剥片類28と石器素材が特筆して多くなっています。黒曜石は石鏃の良質な素材となることがこの集落の石鏃素材別構成からも判っています。(石鏃の石質構成:黒曜石36%、チャート36%、安山岩16%)
従って、J63竪穴住居の故人あるいは家族は狩猟活動に熱心であったことが想定できます。
北貝層の北側には1号鹿頭骨列が存在していて、そのモニュメントを出発点として狩場へ向かっていったと想定できることなどから、北貝層付近居住家族は漁民であるとともに狩猟活動にも熱心であり、その熱心さは南貝層付近の家族を凌駕していたような印象を受けます。

2018年2月11日日曜日

分析作業メモ 中テン箱数の分布

大膳野南貝塚後期集落の出土物による竪穴住居検討 21

2018.02.10記事「貝塚円環形状と竪穴住居分布の関係」で漆喰貝層有竪穴住居と̪漆喰貝層無竪穴住居でその分布特性が全くことなることを再確認したのですが、その2つの集団(?)の間の関係のイメージが湧いてきません。そこでこれまで検討してきた情報をGISで再度空間分析して何か手がかりがみつかるか作業してみます。
この作業から新しい情報を得て充実感を得られるかどうか全く保障はありません。しかし、特段に急ぐ旅ではないので、とにかく予定調和的展望無しで分析作業を行い、同時にこれまでの検討を整理していきます。

1 竪穴住居別中テン箱数の分布
漆喰貝層有無別に大膳野南貝塚後期集落全期を一括して中テン箱数の分布を立体グラフにしてみました。

漆喰貝層有竪穴住居の中テン箱数 1

漆喰貝層無竪穴住居の中テン箱数 1

漆喰貝層有、無竪穴住居の中テン箱数 1

漆喰貝層有竪穴住居の中テン箱数 2

漆喰貝層無竪穴住居の中テン箱数 2

漆喰貝層有、無竪穴住居の中テン箱数 2

2 考察
考察の前提
中テン箱数は竪穴住居からの出土物総量に比例する指標であり、より具体的には嵩の多い出土土器量に近似する指標として使うことができると考えます。
中テン箱数が多いとは、その竪穴住居が廃絶したとき廃絶祭祀が盛んに行われ、土器をはじめとする遺物が多数竪穴住居に持ち込まれたと考えます。
従って中テン箱数が多い竪穴住居は、その住居に居住していた故人や家族が集落の中で軽んじられることのない社会関係を持っていたと考えます。
逆に中テン箱数が少ない竪穴住居は、その住居に居住していた故人や家族が集落の中で軽んじられる社会関係の中にいたり、あるいは集落終末期に廃絶祭祀をだれからもしてもらえなかった場合であると考えます。

考察
1 南貝層に覆われた漆喰貝層有竪穴住居からの中テン箱数が多くなっています。その傾向は北貝層でも見られますが顕著ではなくなります。西貝層では中テン箱数がとても少なくなっています。
この事実から次の推察をします。
・大膳野南貝塚集落のリーダー家族は南貝層に居住していたこと。
・リーダー家族の廃絶竪穴住居を埋めるように貝層が形成されたこと。
・同時にリーダー家族の廃絶竪穴住居が存在しなくても、円環状貝塚形成の意思が働き北貝層の北部や西貝層が形成されたこと。
・従って北貝層の北側や西貝層の形成には南貝層居住家族が関わった可能性があること。

2 南貝層と北貝層の間に漆喰貝層有竪穴住居が存在するにも関わらず貝層が連続しません。その理由は南貝層と北貝層の間に漆喰貝層無竪穴住居群が存在することによると考えられます。漆喰貝層無竪穴住居で中テン箱数が多い竪穴住居は集落が採貝を行わなくなった終末期のものです。
この事実から次の推察をします。
・漆喰貝層有竪穴住居(漁民)は円環状貝塚形成を指向していたと考えますが、漆喰貝層無竪穴住居の存在を避けています。
・従って漆喰貝層有竪穴住居と漆喰貝層無竪穴住居の経済の差(貧富の差)は大きいものがあると想定してきていますが、それにも関わらず漆喰貝層有竪穴住居は漆喰貝層無竪穴住居に配慮をみせています。
・その配慮の存在から漆喰貝層無竪穴住居の家族が極端な隷属下(奴隷的な立場)にあったと考えることは出来そうにありません。

3 参考

ボロノイ図
漆喰貝層有竪穴住居と漆喰貝層無竪穴住居を色分けしてみました。

ボロノイ図 貝層と地点貝層記入
ボロノイ図そのものは考古事象と全く無関係ですが、このような地図を作ってみると漆喰貝層有竪穴住居と漆喰貝層無竪穴住居の立地が全く別の意思で行われたようだと推察できます。
また、漆喰貝層有竪穴住居が無理をして円環状を形成しているような印象も受けます。

2018年2月10日土曜日

貝塚円環形状と竪穴住居分布の関係

大膳野南貝塚後期集落の出土物による竪穴住居検討 20

竪穴住居を漆喰貝層有竪穴住居と漆喰貝層無竪穴住居に区分して出土物等を考察するとその違いが際立ち、集落の様々な特性把握に役立ってきました。
しかし、漆喰貝層有竪穴住居と漆喰貝層無竪穴住居の違いが判りそうで判っていないので、その疑問解消に向けた検討をします。
この記事で疑問が解けたわけではないのですが、検討の糸口は見つけたのかもしれません。

1 貝層と竪穴住居の分布

検討図 1
竪穴住居を漆喰貝層有竪穴住居と漆喰貝層無竪穴住居に区分して貝層分布と一緒に示した地図です。なんとなく円環状の構造になっていますが全体として明瞭な円環と言われると首肯できません。

2 貝層の分布

検討図 2
貝層と地点貝層だけを抜き出しました。図面上部の大きな地点貝層を除くと円環といってもいいような形状を観察できます。

3 漆喰貝層有竪穴住居の分布

検討図 3
漆喰貝層有竪穴住居だけを抜き出すとその分布は思った以上に円環形状らしくなります。

検討図 4
検討図2と3をオーバーレイするとより円環形状が明瞭に浮かびあがります。図面上部の大きな地点貝層と竪穴住居は円環形状を乱す要素として、特別の意味があるのかもしれません。

4 漆喰貝層無竪穴住居の分布

検討図 5
漆喰貝層無竪穴住居の分布は貝層や漆喰貝層有竪穴住居にみられたような円環形状は見られません。漆喰貝層無竪穴住居の分布構造は漆喰貝層有竪穴住居の分布構造と明らかに異なります。

検討図 6
検討図2と5をオーバーレイするとその分布構造の違い(合わない有様)が明瞭になります。

5 検討
漆喰貝層有竪穴住居とは漁撈活動に従事する家族の住居であることは確実です。漁民です。その漁民が円環状の貝塚形成と円環状に竪穴住居も建てたと理解できます。
この集落空間構造をつくる漁民の活動と漆喰貝層無竪穴住居(の家族)がどのようにかかわっているのか、疑問が解けないのが現状です。
漆喰貝層無竪穴住居は出土物が極めて貧相です。文字どおり漆喰貝層が全く出土しません。漆喰貝層無竪穴住居家族は漁民としての意識が無かったことは確実です。漆喰貝層有竪穴住居家族と生業と意識が異なると考えられます。
しかし住居数は漆喰貝層有竪穴住居と漆喰貝層無竪穴住居とであまりかわりません。
疑問解消に向けて検討を続けます。

2018年2月9日金曜日

思考補助ツールとしてのボロノイ図

QGISでボロノイ図、ドロネー図が簡単に作画できることは知っていましたがその活用イメージが湧きませんでした。しかし大膳野南貝塚竪穴住居の分析を進める中でボロノイ図が有用な思考補助ツールとして活用できますのでメモしておきます。

●ボロノイ図
ある距離空間上の任意の位置に配置された複数個の点 (母点) に対して、同一距離空間上の他の点がどの母点に近いかによって領域分割された図。
●ドロネー図
隣接するボロノイ領域の母点同士をつなぐ線分によって領域分割された図。

1 大膳野南貝塚後期集落(全期)竪穴住居の分布

竪穴住居の点表示
ボロノイ図、ドロネー図は点データから作成します。

竪穴住居のポリゴン表示
点データよりもポリゴン表示の方がはるかに分布実態を感得できます。

2 ボロノイ図表現

ボロノイ図+点データ
点とボロノイ領域が幾何学として対応しますから図としては訴求力があります。従って表現技法としては大いに役立つ図となります。
しかし自分が求めた思考刺激ツール(発想刺激ツール)としては次の図とくらべると弱いものです。

ボロノイ図+ポリゴンデータ
ボロノイ図にポリゴンデータを重ねるとポリゴンの重なり具合やバラバラな大きさとボロノイ領域との関係が「微妙に不安になり」その不安を解消するため実際の竪穴住居分布(重なり具合など)を詳しく観察せざるを得なくなり、分布の特性理解を強引に促進します。
この図を拡大すると、さらに分布特性の理解が進みます。

ボロノイ図+ポリゴンデータ
ポリゴンの重なりとそれによって機械的に区分されたボロノイ領域(考古的には意味のない領域)を同時に観察することによってポリゴン分布の意味がより強く認識できます。

この認識はポリゴンデータだけの分布からは得にくいものです

ポリゴンデータ

ボロノイ図は私にとって思考補助線のような役割をする思考刺激情報(発想刺激情報)です。雑音を一緒に聞くことによって、音楽の本当のすばらしさを感じることができるようなものかもしれません。

ボロノイ図+点データ
ボロノイ図+点データでは「本当に点データ」ならよいのですが、実際は点でないものを扱うときは、見映えを良くするには使えますが、思考刺激剤としては弱いものになります。

3 参考 ドロネー図表現

ドロネー図+点データ

ドロネー図+ポリゴンデータ

ドロネー図+ポリゴンデータ

近隣竪穴住居の間の幾何学関係という点ではドロネー図はボロノイ図と同じであり、ドロネー図から特段の思考刺激を受けることはありませんでした。

追記
多数遺跡の竪穴住居ボロノイ図を作成して比較するなどすれば、ボロノイ図を作成しないとわからなかった遺跡毎に異なる(あるいは同じ)竪穴住居分布特性を把握できるかもしれません。

2018年2月8日木曜日

急成長ピーク期に観察できる破たん現象

大膳野南貝塚後期集落の出土物による竪穴住居検討 19

2018.02.07記事「大膳野南貝塚後期集落の漁場とそこへ通じる2つのルート」で西側谷津に張出部を向けた竪穴住居、つまり西側谷津を利用して漁場に向かう竪穴住居家族は近隣集落とのいさかい覚悟の上で生業を行おうとする、集落運営上の末期症状であると考えました。
漁場全体が陸化消滅するなかでトラブル覚悟の生業活動をするのですから集落崩壊の予兆現象であると考えました。
そうした考えが妥当かどうか、この記事では西側谷津方向に張出部を向けた竪穴住居群と南側谷津方向の張出部を向けた竪穴住居群の特性を比較することによって検討してみました。

1 1群と2群の区分
堀之内1式期の竪穴住居について、南側谷津に張出部を向けた竪穴住居を1群、西側谷津に張出部を向けた竪穴住居2群として区別しました。

1群と2群の区分

2 竪穴住居面積の比較

1群と2群の竪穴住居面積の比較
1群より2群の方が面積が狭く、2群の方が用意できる木材の量や太さが劣ることになり、また維持管理の手間もかける余裕がないことを示していて、2群は経済的に貧しかったといえます。

3 中テン箱数の比較

1群と2群の中テン箱数の比較
中テン箱数は出土物総量を比例しますが、主に土器量と直接相関すると考えられます。
2群の中テン箱数は1群と比べて1/3と大きく見劣りし、2群の貧しさが浮き彫りになります。

4 石器数の比較

1群と2群の石器数の比較
2群の漆喰貝層有竪穴住居の石器数が1群漆喰貝層無竪穴住居より少なくなっていることから、1群と2群は単純に貧富の差があるというよりも、2群の極端な(絶対的な)貧しさが観察できます。人口急増期に外部から流れ込んできた貧しい集団が2群かもしれません。
近隣貝塚集落が先行して崩壊し住民が各地に逃げ出し、その一群が大膳野南貝塚の北側にたどり着いて居住を請い、許されたけれども南側谷津の利用は拒否され様子が一つの可能性として想像できます。

5 獣骨出土数の比較

1群と2群の獣骨出土数の比較
獣骨出土数は竪穴住居廃絶後の祭祀で行われた獣食の様子を示していると考えられ、その面からも2群の貧しさが浮かび上がります。

6 考察
想定した通り、1群と比べ2群は極端に貧しい集団であり、集落急成長ピーク期にそれが崩壊する前兆(あるいは崩壊の最初場面)を表現していると捉えることができました。
2群は空間的に集落の北にまとまっているので、近隣貝塚集落で先行して崩壊した集落から逃げてきた人々かもしれません。
大膳野南貝塚後期集落の崩壊要因の一つに先行崩壊集落からの流入民による人口急増押上現象があるのかもしれません。


2018年2月7日水曜日

大膳野南貝塚後期集落の漁場とそこへ通じる2つのルート

大膳野南貝塚後期集落の出土物による竪穴住居検討 18

大膳野南貝塚後期集落の堀之内1式期(急成長ピーク期)の竪穴住居張出部方向を見ると、集落南側谷津から漁場へ向かったルートと集落西側から漁場へ向かったルートの2つが考えられますのでその漁場がどこであるのか検討してみます。

1 堀之内1式期の竪穴住居張出部方向から推定する漁場への2ルート

堀之内1式期の竪穴住居張出部方向から推定する漁場への2ルート
竪穴住居張出部(住居出入口)方向は生業フィールドへ通じる道路の方向を向いていると考えられます。2018.02.05記事「集落変遷と竪穴住居張出部方向 大膳野南貝塚後期集落」参照
黄緑で塗色した竪穴住居は集落西側谷津から漁場へ、それ以外の竪穴住居は集落南側谷津から漁場へ降りていたと考えます。
集落西側谷津を利用した漁場との往復は堀之内1式期(急成長ピーク期)だけにしか見られませんから、人口急増期の無理な漁撈を表現していると考えます。

2 後期集落時代の海面分布の様子

大膳野南貝塚 時代と縄文海進海面の対応イメージ
後期集落出土物のc14年代測定結果はほぼBP4000年を示します。
別資料との対応関係でみると後期集落は5000年前海面分布と3500年前海面分布の中間でより3500年前海面分布に近い姿としてイメージできます。

参考として3500年前海面分布の地図に大膳野南貝塚をプロットすると次のようになります。

想定 縄文時代後期頃の海況
この想定から大膳野南貝塚後期集落が営まれていた頃の海は村田川河口湾内に深く入り込んだ海面が全て失われて陸化していくそのプロセスの時期と一致するものとして把握できます。

3 大膳野南貝塚の海へ出る2ルートの意味

大膳野南貝塚及び近隣後期貝塚から漁場への谷津ルート
大膳野南貝塚の南側谷津から村田川河口湾に出るルート付近には後期貝塚は無いので、大膳野南貝塚が専用でき、谷津出口付近の漁場も専用できたと考えられます。(草刈遺跡は縄文時代中期。)
大膳野南貝塚の西側谷津から村田川河口湾に出るルートは六通貝塚一致し、場合によっては小金沢貝塚ともバッティングします。谷津出口の漁場は六通貝塚が専用的に使っていて、大膳野南貝塚の利用チャンスは少なかったに違いありません。
このようなリスクのあるルートを大膳野南貝塚では急成長ピーク期(堀之内1式期)だけ使っています。その意味するところは南側ルートから出て使える専用漁場1だけでは足りず、六通貝塚との争いを覚悟の上で六通貝塚の漁場2を六通貝塚操業時間以外とか、生産性の低い縁辺地区などで漁撈していたと想像します。人口急増がピークに達し、正常な生業活動が不可能になり、なりふり構わない活動はその後の人口急減(死滅、移動)がすでに内部から進んでいる姿として捉えることができます。
近隣貝塚集落とのトラブル覚悟の生業活動の背景には河口湾の陸化が進み、漁場自体が縮小消滅したことが主因として考えられます。

2018年2月6日火曜日

集落創始期は狩猟と漁労の二股であった 大膳野南貝塚後期集落

大膳野南貝塚後期集落の出土物による竪穴住居検討 17

2048.02.05記事「集落変遷と竪穴住居張出部方向 大膳野南貝塚後期集落」で集落創始期(称名寺式期前後期)にのみ漆喰貝層有竪穴住居で海へ向かう道とは正反対の北方向の張出部(出入口)を持つ竪穴住居が存在していることを突き止めました。
その理由は海で行う漁撈ではなく陸で行う狩猟を意識しているからだと推測しました。
その推測をデータで検討してみました。

1 集落創始期は生業展望が確立していなかった
1-1 狩猟フィールド方向を張出部方向とする竪穴住居(漆喰貝層有竪穴住居)の存在
狩猟フィールド方向(北方向)を張出部方向(出入口方向)とする漆喰貝層有竪穴住居は集落創始期だけに存在します。
集落創始期は主食の堅果類確保のメドは仮に立っても、まだ狩猟と漁撈の力点の入れ方が定まらなかった時期であると考えます。
集落創始家族は全て主食確保はもちろんのこと狩猟も漁撈もすべて行ったと考えられますが、南貝層を例にとれば、J77竪穴住居家族は狩猟の可能性により興味を持ち、J82、J104竪穴住居家族は漁撈の可能性により興味を持っていたと想定できます。
J77竪穴住居からは鹿角製腰飾りとともに獣骨が多量に出土し、この竪穴住居家族主人が狩猟に丈ていたことを物語っています。なお貝刃など貝製品も出土していて、J77竪穴住居家族が狩猟も漁撈も、当然主食堅果類採集もすべて満遍なく行っていたことは当然であると考えます。

集落創始期(称名寺式期前後期)の竪穴住居と出土物

1-2 石器出土数が多量である
時期別に竪穴住居1軒あたり平均石器出土数をみると、集落創始期の数が異常に大きくなっています。

時期別竪穴住居1軒あたり平均石器出土数

個別住居毎に確かめると確かに集落創始期住居の石器出土数が上位を占めています。

竪穴住居別石器出土数

これまでの検討では集落創始期になぜ石器出土数が「異常」に多いのかわかりませんでした。しかし、この時期は仮に主食が確保できても(それも実は未知だったのかもしれませんが)主な副食を狩猟から得るのか漁撈から得るのか不明だったとすれば、1つの理解をすることが可能になります。
つまり生活基盤が十分に出来ていないことを十分に自覚していたので、どのような想定外事態が生じても道具不足によって生活が破たんしないように、普通必要な道具セットの予備を多数所持しているというリスク管理をしていたのだと考えられます。

なお、集落全期の竪穴住居1軒あたり石器数グラフと集落創始期(称名寺式期前後期)のおなじグラフを比較すると、利用系統別の割合がよく似ています。
このことから、縄文時代家族が所持する石器セット(生活道具セット)は主食採集・調理、狩猟、素材を基本に一定のパターンが存在していることが想定できます。
生業における専門分化は現代人が考えるほどには存在していなかったことが理解できます。

後期集落全期 利用系統別石器平均出土数

後期集落創始期 利用系統別石器平均出土数

2 考察
集落創始期にこの場所にやってきた家族は別の場所で「まっとうな生活が出来なくなってこの場所に流れついた」ので、この場所ではどのように食うことができるのかいろいろと試しながら生活したことは確実です。その一環として狩猟と漁撈のどちらをメインにするのか試した結果が竪穴住居張出部の北向きと南向きの双方が存在することに表現されていると考えます。
また、はたして本当に餓死しないで生活できるのか、リスク管理の観点からいつもの生活で必要な石器セット(生活道具セット)の約3倍近いセットを所持していたことから集落創始家族の悲壮な決意が判ります。

2018年2月5日月曜日

集落変遷と竪穴住居張出部方向 大膳野南貝塚後期集落

大膳野南貝塚後期集落の出土物による竪穴住居検討 16

大膳野南貝塚後期集落変遷のなかで竪穴住居張出部方向を詳しく観察してみました。
張出部方向図形をQGISにプロットする操作ははじめてでしたので、それができるまでに時間がかかりましたが、出来上がったデータから自分にとって貴重な情報を得ることが出来ました。

1 称名寺式期前後期(集落創始期)の竪穴住居張出部方向

称名寺式期前後期竪穴住居張出部方向
この貝塚集落の創始家族の住居と考えられる漆喰貝層有竪穴住居のうち北貝層、南貝層の各1軒の張出部方向が北方向を向いていて大変特異なデータとなっています。
海に出る方向(南の方向)とは反対の方向を集落創始家族が向いていた理由は、狩猟場の方向を向いていたのであると考えます。
集落創始期にはメイン生業として陸獣の狩と海岸の漁撈の両方を射程に収めていたのだと思います。
北貝層北側にある漆喰貝層無竪穴住居の張出部の方向が北北東を向いていますが、この方向は近くから出土した鹿頭骨列から想定した狩場方面へ向かう集落出口通路方向と一致していて、集落創始期には狩猟という生業を念頭においた張出部方向決定がなされていたことが判ります。2018.01.22記事「鹿頭骨列の解釈」参照

2 堀之内1式期(急成長ピーク期)の竪穴住居張出部方向

堀之内1式期竪穴住居張出部方向
漆喰貝層有竪穴住居の張出部方向で北方向、つまり狩場の方向を意識したものは無くなりました。この時期の集落メイン生業は完全に海岸付近の漁撈になったことがわかります。
また集落から南に降りるメインルートだけでなく、集落西の谷から海岸に降りるルートを意識した西あるいは北西を示す張出部も北貝層の漆喰貝層有竪穴住居、南貝層近くの漆喰貝層無竪穴住居にみられます。
おそらく集落南の谷から向かう村田川河口付近漁場と集落西の谷から向かう漁場は多少異なっていて、集落南の谷から向かう漁場が収穫物が最も多いメイン漁場であったと想定します。

3 堀之内2式期(急減退期)の竪穴住居張出部方向

堀之内2式期竪穴住居張出部方向
漁場の陸化(海退による漁業権のある漁場の自然消滅)が1つの要因となり集落発展が破たんし、急増人口のほとんどが死滅あるいは移動したあとの姿です。
張出部方向は南に限定されていて、村田川河口付近に残った漁場の残片にすがり付いている様子が表現されていると考えます。

4 堀之内2式~加曽利B1式期(衰退期)の竪穴住居張出部方向

堀之内2式~加曽利B1式期竪穴住居張出部方向
この時期は漁撈はおこなっていないのですが、おそらくその前期からの風習で張出部は南方向を向いたのだと思います。

5 加曽利B1式期(衰退期)の竪穴住居張出部方向

加曽利B1式期竪穴住居張出部方向
集落衰滅時の姿であり、張出部方向から意味のある情報は引き出せません。

6 参考

後期(詳細時期不明)竪穴住居張出部方向

後期(全期)竪穴住居張出部方向

7 考察
・竪穴住居張出部方向が生業フィールドへの道の方向を示すものであるとイメージすることができました。
・称名寺式期前後期に狩場に向いた(北を向いた)竪穴住居と漁場を向いた(南を向いた)竪穴住居に関して出土物等の違いが見られるか、検討することにします。
・堀之内1式期に集落南の谷からおりた漁場と集落西の谷から降りた漁場がどこであるか、検討することにします。
・集落南の谷を向いている竪穴住居と集落西の谷を向いている竪穴住居で出土物等で違いが見られるか検討することにします。