2020年5月10日日曜日

縄文草創期矢柄研磨器(一鍬田甚兵衛山南遺跡) 観察記録3Dモデル

縄文石器学習 5

千葉県多古町一鍬田甚兵衛山南遺跡から隆起線文土器、有舌尖頭器と共伴出土した矢柄研磨器の観察記録3Dモデルを作成し詳しく観察しました。

1 縄文草創期矢柄研磨器(一鍬田甚兵衛山南遺跡) 観察記録3Dモデル

縄文草創期矢柄研磨器(一鍬田甚兵衛山南遺跡) 観察記録3Dモデル
千葉県教育委員会所蔵
撮影場所:千葉県教育庁文化財課森宮分室
撮影月日:2019.05.27
3Dモデル写真測量ソフト 3DF Zephyr で生成 v4.530 processing 42 images


発掘調査報告書挿図
一鍬田甚兵衛山南遺跡発掘調査報告書より引用

撮影の様子

動画

2 観察

観察図1
メインの溝は若干カーブしています。カーブした篠竹を温めて逆カーブでしごいてまっすぐにするとか、節や篠の残葉を削ぎ取るのに利用したと推測します。
各所にアリジゴクのような穴があります。弓の一方をここに添えて固定し弦を張るのに利用したのではないかと推測します。

観察図2
篠竹をしごいたと思われる溝が各所にあります。また篠竹の断面を擦って断面を平滑にしたと推測できる円形凸形が大小3つ並んでいます。

3 感想
矢柄研磨器は縄文草創期のこの時期にしか出土せず、弓矢が発達すると姿を消したといわれています。もしそうだとすると次のようなことが考えられると想像します。
1 矢羽根が発明されるまで投げやりと弓矢の矢柄調整に矢柄研磨器が使われた。
2 矢柄研磨器を利用しない、より合理的な矢柄調整方法が発明された。
3 弓威力向上の開発が進み、微妙な矢柄調整は不必要となった。

……………………………………………………………………
この矢柄研磨器はすでに2019.06.17記事「参考 矢柄研磨器 一鍬田甚兵衛山南遺跡出土 観察記録3Dモデル」で観察していますが、この度3Dモデルを調整し直すとともに、より詳細な観察を行いました。

2020年5月9日土曜日

50万ページビュー通過を感謝します

2020.05.09にこのブログの累計ページビュー数500000を通過しました。
ブログ「花見川流域を歩く」を読んでいただいている皆様に心から感謝申し上げます。

50万ページビューを超えたカウンタ(2020.05.09 04:00)

ブログ「花見川流域を歩く」は2011.01.15に開設し、2014.01.09に10万ページビュー、2015.11.13に20万ページビュー、2017.07.28に30万ページビューを通過し、本日50万ページビューを通過しました。

多くの方々にこのブログをよんでいただいて、とても励みになります。
ブログ継続を梃にして趣味活動を続けていられるのも皆様からのアクセスとコメントがあるおかげです。
心から感謝申し上げます。
今後もよろしくお願い申し上げます。
ありがとうございます。

5mメッシュを利用した地形段彩図
(20万ページビュー感謝記事で掲載し、30万ページビュー感謝記事で再掲載したものを再再掲します。私は地形・風景・地名・考古歴史に関する問題意識をこの地図に投影して想像、空想、妄想を極限まで肥大化して楽しんでいます。この地図は私の趣味活動促進の「実用地図」です。)

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参考1 過去の感謝記事等
2011.01.15記事「ブログの開設」
2014.01.10記事「100000ページビューありがとうございます」
2015.11.14記事「20万ページビューありがとうございます」
2017.07.28記事「30万ページビュー通過に感謝します」

参考2 2013.04.14からの累計訪問者数の上位20県・州(2020.05.09現在)
(24時間内で同一機器からページビューがあった場合、ページビュー数の多寡にかかわらず1人としてカウント)

1 千葉県
2 東京都
3 カリフォルニア州
4 神奈川県
5 イリノイ州
6 埼玉県
7 大阪府
8 茨城県
9 ワシントン州
10 愛知県
11 兵庫県
12 北海道
13 京都府
14 長野県
15 ネバダ州
16 ニューヨーク州
17 静岡県
18 福岡県
19 栃木県
20 バージニア州

参考3 2013.04.14からの訪問者フラッグマップ(2020.05.09現在81ヵ国)

フラッグマップ

2020年5月8日金曜日

千葉県匝瑳市出土縄文晩期安山岩製石棒 観察記録3Dモデル

縄文石器学習 4

千葉県匝瑳市立のさか図書館展示室で観覧した縄文晩期石棒(匝瑳市豊和地区出土)の観察記録3Dモデルを作成しました。

1 縄文晩期石棒(匝瑳市豊和地区出土)及び弓 観察記録3Dモデル

縄文晩期石棒(匝瑳市豊和地区出土)及び弓 観察記録3Dモデル
石棒:縄文後晩期、匝瑳市豊和地区飯塚出土、安山岩製
弓:縄文後期~晩期、亀田泥炭遺跡、木製、イヌガヤ製
撮影場所:匝瑳市立のさか図書館展示室
撮影月日:2019.09.04
ガラス扉半開き越し撮影
3Dモデル写真測量ソフト 3DF Zephyr で生成 v4.530 processing 58 images

展示の状況

テクスチャモデルの動画

ソリッドモデルの動画

2 感想
この石棒はすでに次の記事で検討しています。
2019.10.17記事「石棒の3Dモデルと妄想」
今、再びこの石棒を観察すると、千葉県匝瑳市に産出しない安山岩の大きな塊をどのように入手したのか、あるいは石棒製品が匝瑳市域に持ち込まれたのか、興味が興味を呼び込みます。
匝瑳市域は弥生、古墳、飛鳥、奈良時代にあって縄文の雰囲気を色濃く残したのではないかと想像しています。九十九里は千葉県における縄文のふるさとかもしれません。(俘囚由来ではない、正真正銘確実な縄文地名が九十九里には残存しています。)趣味学習のネタが増えています。

匝瑳市には亀田泥炭遺跡のある特定木製品閲覧にお伺いしました。数度の連絡をしましたが、結局目当ての木製品の閲覧には至りませんでした。その代替に亀田泥炭遺跡出土弓(木製品)の閲覧を行いました。その際この石棒も撮影しました。今となっては石棒を撮影していてよかったと思います。
2019.01.29記事「亀田泥炭遺跡出土木製品はイナウ似木製品」参照

縄文早期の海岸と台地の回帰的定住

縄文社会消長分析学習 14

1 房総の縄文早期遺跡分布図に回帰的定住活動を投影する
1-1 縄文早期の海岸と台地の回帰的定住
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)で縄文早期に貝塚が発生しそれこそ定住のはじまりであると記述されています。
その部分を引用すると次のようになります。
「定住生活が進展すると、海岸部や汽水域など、貝類を捕食する地域では貝塚が形成されるようになっていた。貝塚とは、機能的には「ゴミ捨て場」だが、観念的な意味ではまた違ったようで、祭祀的な場所でもあったようだ。 貝塚が形成されるということは、生ゴミとしての貝殻が堆積するほどの期間はその場所に定住していたということに他ならない。無論、季節によって移動することもあっただろうが、その場合であっても離れては戻るといった回帰的な動きをしていないと貝層ができるほどには貝殻は堆積しない。したがって、貝塚の存在は定住生活を行っていた証拠となる。」
「このような貝塚は、すでに早期前葉の時期(遅くとも約1万1000年前)には出現しており(たとえば神奈川県夏島貝塚など)、この時期にはすでに本格的な定住生活が営まれていたとみてよいだろう。」
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

縄文早期における定住開始を強調した文章ですが、「離れては戻るといった回帰的な動き」が挿入されているとおり、通年定住ではなく、海岸部を含む複数個所で回帰的定住が行われたという趣旨で理解できます。

1-2 房総の縄文早期遺跡分布図に回帰的定住活動を投影する
このような観点から房総の縄文早期の貝塚を含む遺跡分布図を見ると強い興味に襲われます。

早期前葉・撚糸文期の貝塚分布
「千葉県の歴史 資料編考古4(遺跡・遺構・遺物)」から引用

貝塚を伴う遺跡が海岸(古鬼怒湾入り江)に存在し、そこから20㎞程離れた場所に貝塚を伴わない遺跡群が密集しています。
縄文早期の貝塚が地形的要因でほとんど残存しないことを考えると、発見された貝塚2カ所が多数貝塚群を指標していると想定できます。
つまり海岸部における漁労的定住と、20㎞程離れた台地中央部をメインとした狩猟的定住という回帰的定住活動がこの「早期前葉・撚糸文期の貝塚分布」に表現されているのではないかと思考することができます。
この思考(想像)をポンチ絵にすると次のようになります。

千葉県縄文早期井草式遺跡ヒートマップ及び考察
井草式期遺跡の密度が濃い場所を濃い色で表現(ヒートマップ表示)しています。その場所が現在の成田空港付近であり、その場所から北に行くと古鬼怒湾の入り江があり、南東に行くと栗山川下流の太平洋入り江があります。
現在の成田空港付近(ヒートマップで濃い色の部分)は二つの漁労定住地に行きやすい交通の要衝であり、かつ下総台地における狩猟のキャンプ地として最適な場所です。
上記回帰的定住という生活様式を遺跡分布図に投影して考えることが可能であることに気が付きました。(想像しました。)

2 縄文草創期における海岸と台地の回帰的活動の可能性

千葉県 縄文草創期遺跡ヒートマップと素朴な疑問
下総台地では縄文草創期遺跡密集地が成田空港付近のあります。
ところが、旧石器時代遺跡密集地は台地地形の特異地点(効率的狩猟可能地点=狩場)に存在します。

千葉県 旧石器時代遺跡ヒートマップ
縄文草創期遺跡密集域が優良狩場ではない台地中央部に存在することは、生活様式が狩場から狩場に移動する遊動生活ではなく、海岸(古鬼怒湾、栗山川河口)と台地を回帰する生活を行っていたからであるとの推察が一つの可能性として浮かびあがります。

千葉県 縄文草創期遺跡ヒートマップ及び考察

1と2の考察は昨年7月に行ったものです。2019.07.18記事「縄文草創期遺跡集中域が成田空港付近にある理由」参照

3 縄文草創期に海岸で漁労活動をした証拠
縄文草創期に海岸で漁労活動が行われ、貝塚が形成されたとしてもそれは地史的要因により発見される可能性はほとんどありません。
しかし、次のような方法で縄文草創期における海岸漁労活動が推定できないか、今後思考を深めることにします。
3-1 直接的証拠
ア 土器に残された漁労活動の痕跡
海岸部で作られた土器が台地部に持ち込まれた場合の痕跡
・胎土に貝殻片が偶然含まれる
・貝殻片で模様が描かれる
・貝殻片の圧痕が偶然残るなどの痕跡
イ 貝殻の出土
海岸部から偶然持ち込まれた貝殻小片が遺跡から出土する(後の時期の貝殻片が紛れ込んだとして雑音扱いされていないか?)
ウ 海獣の骨製品出土
・・・
3-2 間接的証拠
狩猟専業遊動生活における持ち物の割合と狩猟と漁労の双方を行う生活での持ち物の割合が異なるとすれば、その比率等を利用できるかもしれません。
素人考えですが、狩猟専業の民が使う狩猟具のほうが漁労も行う民より、より専門的で洗練されているに違いありません。石鏃一つにしても概形は似ているかもしれませんが、細部の出来(質…性能)が違うかもしれません。
縄文草創期の貝塚は見つからないから、定住はないという考えではなく、貝塚そのものは見つからなくても海岸部で一定の定住生活をしていたという仮説を持てば新しい情報に巡り会えるかもしれません。


2020年5月6日水曜日

縄文早期当初から早期終末期までの海域拡大

縄文社会消長分析学習 13

縄文社会消長分析学習を進めるにあたって縄文早期の海域拡大が尋常ならざるものがあり、その実態を知り、問題意識を深めようとしています。
この記事では海域水深データを入手し、QGISにプロットするところまでできましたのでその結果をメモします。

1 海域水深データの入手
サイト NOAA NATIONAL CENTERS FOR ENVIRONMETAL INFOMATIONからETOTP1 ice Surface(氷の表面)、cell registrated(セルの真ん中)、georeferenced tiff形式でデータをダウンロードしました。

ETOPO1_Ice_g_geotiff.tif(445MB)

2 水深0m~-40m、水深-40m~-100mの抽出
ダウンロードファイルをQGISに取り込みプロパティ→シンボロジ→単バンド疑似カラーで分類を操作して水深0m~-40mを緑色、水深-40m~-100mを紫色に設定ました。

水深0m~-40m、水深-40m~-100mの抽出図(世界)


水深0m~-40m、水深-40m~-100mの抽出図(日本周辺)

3 縄文早期当初と前期前葉当初の海・陸分布イメージ
後期旧石器時代の氷期クライマックス期には海水面高度は-100mあるいはそれ以上であったと考えられています。その後海水面は上昇し、縄文早期当初の海水面高度は-40m程度であるといわれています。その後海水面高度は急激に上昇し、縄文早期終末=前期前葉当初には+2.5m~3m程度であったといわれています。その当時の海面は関東平野の奥まで侵入しています。その侵入の様子は現在の標高8m等高線で近似的に把握することができます。(2014.04.08記事「縄文海進クライマックス期の海陸分布」参照)
これらの情報を関東地方についてGoogle earth をベースとした地図に表現してみました。

Google earth をベースとした基礎図

この基礎図をまとめて清書すると次のようになります。

縄文早期当初と前期前葉当初の海・陸分布イメージ
縄文早期の期間は房総付近では陸地が半減した時期にあたります。気候が温暖化して植生等が変化したというだけでなく、生活空間そのものが半減しています。この陸域半減という事象は草食動物にとっては半分しか生き残れないという意味を持つと考えられます。一方人にとってはどうでしょうか?おそらく生活の方法や社会の仕組みを工夫して社会は継続しておそらく発展したに違いありません。獣の替わりに別の食べ物を探したに違いありません。
房総や東京湾沿岸の縄文人が生活空間半減という一種の試練を受けていたころ、内陸の縄文人はそのような影響を受けていません。ここに縄文社会の地域特性が顕著に表れる素地があるのではないだろうかと推測します。
縄文社会消長分析学習の大きなテーマが見つかりそうな感じになってきました。

4 感想
・海底地形データの極粗い情報ですが、QGISで操作できるようになりました。
・現在水面下にある-100mまでの海底は、海岸浸食の結果と堆積物に覆われて平坦になっています。しかし海水面が上昇していたころの地形は浸食がすすむ台地であったと考えられます。その広大な台地地形を「なかったことにして考えない」、「考えるのは現在の陸地だけ」というスタンスは決して許されません。
・今後より精細な海底地形情報を入手し、検討をより精細にしていくことにします。

2020年5月5日火曜日

津軽海峡と対馬海峡の海底地形

縄文社会消長分析学習 12

ブログ芋づる式読書のメモ2020.05.04記事「早期の環境」で縄文早期初頭の海水面はマイナス40mであり、現在と海岸線の位置が大いに違うことから、過去の海岸線の復元についてその方法を検討しています。
その検討の一環として、Google earth proで海底地形断面図作成が可能であることを知りましたので、その方法をメモします。

最終氷期の最盛期には、「当時は現在よりも寒冷な時期であり、地球上の水が氷河や雪など氷の形で陸上に固定されていたため、海水の量は現在よりも少なく、海水面は今よりも100メートルほども低かったと考えられている。最近の研究では、現在の津軽海峡や朝鮮海峡にあたる部分は水深が深く、海水面が100メートル低下しても陸橋とはならなかったので、大陸と本州・四国・九州がつながることはなかったとされている。」(山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用)と記述されていますが、Google earth proでそれを実際に確かめてみました。

1 Google earth proでの海底地形断面図の作成方法
(事前にサイドバーのレイヤーの地形にチェックを入れておく)
1 メニューバーの「パス」をクリック
新期パスWindowが開く
アイコンが四角になる
2 断面図視点にマウスを移動してクリック→終点にマウスを移動してクリック→クリック
3 新期パスWindowで「標高」をクリックして「地面に固定」を「海底に固定」に変更する→OKをクリック

新期パスWindow
4 サイドバーの場所の当該パスを右クリックして「高度プロファイルを表示する」をクリック
海底を含む地形断面図が表示されます。

2 対馬海峡の海底地形

対馬海峡の海底地形
朝鮮半島と九州を結ぶ任意の断面線において最深部がマイナス180mとなっています。
海水面がマイナス100m程度ならば対馬と朝鮮半島の間に狭い水道が存在していたと捉えることができます。

3 津軽海峡の海底地形

津軽海峡の海底地形
任意の断面線において最深部がマイナス248mとなっています。
海水面がマイナス100m程度ならば津軽海峡に狭い水道が存在していたと捉えることができます。

縄文中期石棒(清瀬市野塩外山遺跡) 観察記録3Dモデル

縄文石器学習 3

清瀬市郷土博物館で観覧した縄文中期石棒(清瀬市野塩外山遺跡)の観察記録3Dモデルを作成しました。

1 縄文中期石棒(清瀬市野塩外山遺跡) 観察記録3Dモデル

縄文中期石棒(清瀬市野塩外山遺跡) 観察記録3Dモデル
撮影場所:清瀬市郷土博物館
撮影月日:2020.01.17
ガラス面越し撮影
3Dモデル写真測量ソフト 3DF Zephyr で生成 v4.523 processing 73 images

展示の状況

縄文中期石棒(清瀬市野塩外山遺跡)観察記録3Dモデルの動画

2 関連展示物
野塩外山遺跡出土物について次の説明があり、石皿、石斧、剥片石器(黒曜石)、石鏃、石槍が展示されています。
「特徴的な遺物として、3号住居出土の石棒や6号住居出土の剥片石器・緑泥片岩製の石皿があげられます。剥片石器は、黒曜石製で使用痕が認められました。」

3号住居出土石器

6号住居出土石器

石鏃、石槍、石匙

3 感想
石棒の頭部を取り巻いて溝が彫られていますが、その意味についていつか知りたいと考えます。
石棒の手前に石皿が展示されていますが、単なる展示の偶然なのか、石棒と石皿の関係を暗示して近づけて展示しているのか、現在の自分の知識ではわかりません。

2020年5月4日月曜日

縄文中期「模様が彫られた石皿」(茅野市棚畑遺跡)外 観察記録3Dモデル

縄文石器学習 2

尖石縄文考古館で観覧した縄文中期「模様が彫られた石皿」(茅野市棚畑遺跡)外の観察記録3Dモデルを作成しました。

1 縄文中期「模様が彫られた石皿」(茅野市棚畑遺跡)外 観察記録3Dモデル

縄文中期「模様が彫られた石皿」(茅野市棚畑遺跡)外 観察記録3Dモデル
B.C.3000
撮影場所:尖石縄文考古館
撮影月日:2020.03.13

展示の状況

縄文中期「模様が彫られた石皿」(茅野市棚畑遺跡)外観察記録3Dモデルの動画

2 感想
石棒の隣に間仕切り無しで展示されています。自分に知識がないので、石棒とこの大型石皿の間に何らかの関係が(間接的に、暗喩的に)あるのか、無いのかわかりません。しばらく石器学習をつづければわかるに違いありません。
手前左の石皿の模様は人面に見えてしかたがありません。人面が二つ彫られた石皿のように観察できます。人面といえるのかどうか、学習を積めばわかるに違いありません。
もし人面だとすると、それが何を意味するのか分からなくてはいけません。集落の食料事情を見守り守護する祖先霊か?
縄文石器3Dモデルコレクションを増やしていきます。

石棒(茅野市聖石遺跡第4号住居址(SB04))外 観察記録3Dモデル

縄文石器学習 1

縄文石器学習と銘打って縄文時代石器の学習を始めます。学習とはいってもとりあえず各地展示施設で観察撮影した写真から3Dモデルを作成し記事に掲載することから始めます。一種の収集趣味欲の自己満足です。
この記事では尖石縄文考古館で観覧した石棒の3Dモデルを掲載します。

なお、縄文土器は縄文土器学習としてすでに407記事を書いていますが、さらに3Dモデル収集を続けたいと思います。
縄文木製品は縄文木製品学習として10記事を書いています、コロナ明けには雷下遺跡出土木製品の閲覧にチャレンジしたいと密かに時を待っています。
縄文骨角器についても興味が進めば製品の3Dモデルを作成してぜひシリーズ記事化してみたいと思います。

1 石棒(茅野市聖石遺跡第4号住居址(SB04))外 観察記録3Dモデル

石棒(茅野市聖石遺跡第4号住居址(SB04))外 観察記録3Dモデル
・住居址全体の写真(上)を見ると、住居入り口とは反対に石棒が立っていることがわかる。石棒の周辺を拡大してみると(右)、石棒の手前には炉跡があり、炉と連続して一体化した祭壇だった可能性が高いと考えられる。石棒を据えるために段をつけた穴を掘り、根本を土で固めていたようだ。
撮影場所:尖石縄文考古館
撮影月日:2020.03.13

展示パネル

展示の状況

石棒(茅野市聖石遺跡第4号住居址(SB04))外観察記録3Dモデルの動画

2 感想
石棒に関する知識が皆無ですので、集中して基礎知識を入手したいと思います。
奥にある石棒の頭部が段になり変形しています。このような石棒を多々見かけますので、その意義について今後知りたいと考えています。
なお、山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)では石棒について次のように記述しています。このような記述の背景となるよりリアルな情報をぜひとも知りたいと思います。
「縄文時代の遺物には、男性性や女性性を象徴したものが多い。そのような遺物の代表例に、たとえば石棒がある。石棒は、勃起した男性器をかたどった石製品である。大きいものでは2メートルを超えるものから、小さいものは10センチメートルくらいのものまである。このような石棒は、基本的には東日本で発達し、縄文時代前期から見られるようになる。関東・中部・北陸地方を中心とした地域では縄文時代中期に大型化し、後期から晩期には粘板岩というきめの細かい石を使った、文様の多い精巧なものもつくられるようになった。
 石棒の多くは最後に火にくべられたのか、熱を受けて赤くなっており、また意図的に打ち壊されたようである。おそらく、石棒を用いた祭祀の中には、性行為時の男性器のあり方、すなわち「勃起→性行為→射精→その後の萎縮」という一連の状態を擬似的に再現する、「摩擦→叩打→被熱→破壊」という動作が組み込まれていたと考えられる。最終的に破壊されるのは、擬似的性行為が終了したことを示すのだろう。ただし、熱が加えられた痕跡(石が焼けて赤くなる)をみると、石棒が割れた後にもこのような状況が見られる場合もあるので、加熱と破壊の順番は、必ずしもいつも同じではなかったようだ。もちろん、すべての石棒にこのような解釈があてはまるわけではない。」(山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用)

2020年5月2日土曜日

上黒岩岩陰遺跡出土受傷人骨と身二つ

縄文社会消長分析学習 11

1 上黒岩岩陰遺跡出土受傷人骨
2020.04.23記事「産小屋としての上黒岩岩陰遺跡」で上黒岩岩陰遺跡の早期遺構からヘラ状骨器が刺さった女性寛骨が出土していることをメモして興味を持ちました。

ヘラ状骨器が刺さった女性寛骨
国立歴史民俗博物館研究報告第154集から引用

この受傷人骨に関して国立歴史民俗博物館研究報告第154集では次のように分析しています。
ア 受傷人骨は経産婦女性
イ ヘラ状骨器は装身具(垂れ飾り)
ウ 再葬墓から出土
エ 受傷の意義
「この受傷人骨については,これまでは生きている男性に1回刺しただけであるという前提のもとに解釈をくだしてきた。しかし,上記の不自然さをあれこれ総合して考えなおしてみると,むしろこの女性が亡くなってまもなく,遺体を右寛骨が上になるように固定した状態で2回突き刺した,おそらく実際には2回だけではなく骨まで至らない突き刺しも腹から腰付近に何回もおこなったあと最後に寛骨を貫通するまで突き刺した,と解釈するのが妥当ではあるまいか。そして,最後に骨器を突き刺したまま放置していたのは,むしろ意図的なものであって,なんらかの病気で亡くなった女性に対する儀礼行為としての処置であったのであろう。女性の腰の部分に骨器が刺さっており,その女性が妊娠痕をもっていたという事実は,出土人骨のなかに新生児や乳幼児の例が多いことと関連づけるならば,この女性が出産時に死亡し,そのことに対する儀礼的処置であった可能性が思い浮かぶ。その点では,埋葬時に遺体の胸や腹の上に大きな石をおき死者の霊が迷奔するのを防ぐという抱石葬に通ずるところがあろう。」

出産時に死亡した女性に対してヘラ状骨器を骨盤に貫通させて埋葬した意義とは抱石葬に通じるということです。ですから、その女性の霊が蘇らないようにという意味です。しかし、なぜヘラ状骨器が登場するのか、なぜ骨盤に貫通させたのかその意味が不明確でした。
ところが、次の情報に接して、恐ろしい儀礼が自分の脳裏に浮かび上がってきました。

2 妊婦葬送儀礼
Twitterでnishiyan@kotobano2さんから土偶に関連して梅原猛「葬られた王朝」を紹介していただきました。

梅原猛「葬られた王朝」

この図書の中で梅原猛がアイヌ女性から聞き取った内容に次のような記述が含まれています。
「しかし子供が死んだ時よりもっと大変なのは妊婦が死んだ時でした。せっかく祖先の霊が帰ってきて妊婦の腹に宿ったのに、妊婦が死んでしまったら、その子は妊婦の腹に閉じ込めらられてあの世に行けません。妊婦の腹に入つたままであの世に行けない先祖の霊は祟りをなすと思われていたのです。ですから妊婦はいったんふつうの人と同じように墓に埋めますが、翌日、霊力をもった女性がその墓を掘り返し、妊婦の腹を割いて、その胎児を女性に抱かせて葬ります」

この情報からさらにwebで情報を手繰ると、アイヌだけでなく東北では昭和20年代まで死んだ妊婦の腹から胎児を取り出す妊婦葬送儀礼が普通に行われていたことを知りました。
波平恵美子「日本人の遺体をめぐる観念と信仰」
ウィキペディア「死体損壊・遺棄罪」
「1950年〇〇県〇〇村で妊娠十ヶ月の妊婦が死亡した際に死後の安寧を願い妊婦と胎児を切り離し埋葬する「身二つ」と呼ばれる習俗が行われ、死体損壊罪として関係者が地元警察に摘発される事件が起きた。その後法務府は「かような行為は、たとえ非科学的であるとはいえ、死者の霊魂の安静を期するため一層礼意を厚くする趣旨において行われるものであることは客観的に明白である。」とし保護法益を侵害せず違法性を欠くので犯罪の成立を阻却するものであるとの見解を示した。」

3 上黒岩岩陰遺跡出土受傷人骨に関する感想
アイヌのみならず70年前の日本でも「身二つ」と呼ばれる習俗があることを知り、上黒岩岩陰遺跡出土受傷人骨について次のような想像をしました。
ア 妊娠女性が死亡した。
イ 妊娠女性の腹をヘラ状骨器で切り裂いて胎児を取り出した。…胎児をあの世に送るため。
ウ 妊娠女性の骨盤にヘラ状骨器を貫通させた。…妊娠女性があの世に行けないようにするため。
エ 妊娠女性と胎児を葬った。
オ 後日妊娠女性と胎児の骨を取り出し、上黒岩岩陰遺跡の再葬墓に再葬した。

妊娠女性が死亡するということは、女性と子供を含む家族創出という幸福の絶頂から不幸のどん底に落ちることであり、残された家人は絶望感に陥ったと考えられます。妊娠女性があの世に行き、再びこの世に生まれ変わり、同じように妊娠、死亡して家人が不幸になるということをさけるために、死体にヘラ状骨器を貫通させ、あの世に行くのを阻止したものと想像します。

縄文学習がこのような恐ろしいことを思考しなければならないとは、これまで知りませんでした。