2019年7月18日木曜日

縄文草創期遺跡集中域が成田空港付近にある理由

縄文土器学習 196

2019.07.17記事「「千葉県縄文時代幕開けの地」と呼んだ成田空港付近の様子」で縄文草創期遺跡の遺跡密集域が成田空港付近にあり、その理由としてその場所の移動利便性が良いことをあげました。
その場所からどこに移動するために便利だったのか、移動先について思い当たる節がありますので想像してみました。

1 成田空港付近に縄文草創期遺跡集中域が立地する不思議
次の図は旧石器時代遺跡ヒートマップです。

千葉県 旧石器時代遺跡ヒートマップ
4か所の遺跡集中域が観察できます。これらの遺跡集中域は優良狩場であった可能性が濃厚な場所です。東内野(成田空港近く)は東内野湖があり絶好の狩場だったと考えられています。村田川上流部は台地が狭窄していて下総と上総を回遊する動物を特定の場所で確実に仕留めることが出来る場所として旧石器時代・縄文時代を通して下総で最も有名な狩場です。
なお、参考までに旧石器時代(最終氷期)の海岸線概略位置をプロットしてみました。千葉県旧石器遺跡は海岸線まで50km以上あり、旧石器時代遺跡は海と全く無関係(漁労とまったく無関係)であることが確認できます。
このマップを念頭において縄文草創期遺跡ヒートマップを見てみました。

千葉県 縄文草創期遺跡ヒートマップと素朴な疑問
旧石器時代に優良な狩場であった4か所のうち、東内野近くの成田空港付近だけが縄文草創期の遺跡密集域となっています。なぜ成田空港付近に縄文時代最初の遺跡密集域ができたのか疑問がわきます。その理由は必ず存在するはずです。
その理由が過去の学習を思い出すと薄々感じられますので、メモして今後の検討に役立てたいと思います。

2 井草式土器出土遺跡と西之城貝塚
草創期の次の早期初頭の井草式期の集落と貝塚の関係図を作ってみました。

千葉県 縄文早期井草式遺跡ヒートマップ及び考察 円は半径20km
縄文早期初頭の井草式期では集落密集域と貝塚が20km程度離れて存在していることが観察できます。
この頃の香取の海入り江は西之城貝塚付近にあったと考えることができます。
また、栗山川入り江も20km圏内にあり利用していた可能性があります。しかしその遺跡(貝塚)は沖積層の下に埋没してしまっています。
井草式期集落密集域が海岸線に出村(貝塚)を持っていたと考えると、この場所が香取の海入り江と栗山川入り江を利用できて最良の場所です。
古東京川方面では夏島貝塚の位置付近まで古東京川の入り江が入ってきていたと考えられます。つまり、縄文早期初頭頃は現在東京湾中央部付近はまだ海がやってきていない状況です。下総台地住人は現在東京湾方面の海が遠すぎてまだ利用できなかったのです。

当時の社会構造のパターンを「貝塚を伴わない分水界台地の本村+貝塚を伴う到来海岸の出村」という構造で捉え、その当時の海の進出状況を考えると、成田空港付近の場所が2つの海を利用できる格好の場所だったと考えることができます。

図書「千葉県の歴史 資料編考古4(遺跡・遺構・遺物)」の「貝塚」掲載地図でも貝塚を伴う遺跡と貝塚を伴わない遺跡の分布が表現されています。

早期前葉・撚糸文期の貝塚分布
「千葉県の歴史 資料編考古4(遺跡・遺構・遺物)」から引用

3 縄文草創期遺跡集中域が成田空港付近に現出した意味
2で検討した早期初頭の社会構造パターン(「貝塚を伴わない分水界台地の本村+貝塚を伴う到来海岸の出村」)が早期に初めて生まれたパターンではなく、草創期からすでに存在していたと考えてみます。そのように考えると草創期遺跡密集域が本村であり、貝塚出村は現在は沖積層の下に埋没して存在していると思考をつなげることができます。

千葉県 縄文草創期遺跡ヒートマップ及び考察。
縄文草創期には現在東京湾方面の海は遠すぎて利用(漁労)という面では問題外です。狩猟をメインにして漁労もサブ生業として取り入れるとするならば、東内野湖のすぐ近くでかつ香取の海入り江と栗山川入り江の双方が利用できる成田空港付近の場所が絶好の本村立地条件を提供します。

縄文草創期の貝塚は発見されていませんが、それは全て沖積層の下に埋没してしまった(あるいは波蝕台形成に伴う浸食作用で破壊された)からである可能性があります。2017.02.13記事「千葉県の貝塚学習 縄文時代早期前葉・中葉の貝塚が少ない理由」参照

海が狩場からまだまだ遠いため20km先に出村を設けてまで草創期・早期縄文人は漁労をしたと考えます。
草創期遺跡密集域の位置分析から、草創期から漁労が大切な生業であったと推察できました。

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