2019年7月26日金曜日

諸磯式土器と浮島式土器の共伴出土

縄文土器学習 212

2019.07.25記事「諸磯式土器と浮島式土器の分布」で前期後葉の諸磯式土器と浮島式土器の分布を観察しましたが、その二つの土器形式が共伴出土する遺跡が多数ありますので、その状況を分析しました。

1 諸磯式土器と浮島式土器が共伴出土する遺跡分布

千葉県 諸磯式土器分布
諸磯式土器が密集する場所は同時に浮島式土器が共伴出土する場所であると言えます。ただし県南東部夷隅川流域付近では浮島式土器が共伴出土する遺跡はほとんどありません。この場所まで浮島式土器勢力圏が及んでいないからです。

千葉県 浮島式土器分布
県東北部に密集する浮島式土器出土遺跡ではほとんど諸磯式土器との共伴出土が見られません。この付近は前代(黒浜式土器)に遺跡分布はまばらであり、この時期になって浮島式土器勢力圏になったためです。

千葉県 諸磯式土器と浮島式土器の出土遺跡数
統計をとると諸磯式土器出土遺跡は44%が浮島式土器と共伴、浮島式土器出土遺跡は30%が共伴となります。

2 メモ
「千葉県の歴史」(千葉県発行)の土器形式編年資料の前期後半は、諸磯式土器と浮島式土器がそれぞれ形式変化(細分変化)しながら同時に存在している様子を示しています。
同じ人(集団)が二つの土器文化をもち、かつ子孫にその二つを伝え、子孫がその二つを発展させる(細分型式の変化)ことはあり得ないことです。
従って、諸磯式土器文化を持つ人(集団)と浮島式土器文化を持つ人(集団)は別であると考えざるを得ません。
具体的には作業仮説として、諸磯式土器文化を持つのは下総台地の在地集団、浮島式土器文化を持つのは北方からやってきた外来集団であると考えます。

作業仮説 在地集団と外来集団

2つの集団がそれぞれ集落を構えるだけでなく、1つの集落に2つの出自がことなる集団が共同して居住するという極めて興味深い事象が存在しています。
その2つの異集団が下総台地で共存してそれぞれ独自文化(諸磯式と浮島式)を堅持して発展させながら生活した時間は550年以上です。

諸磯式土器は550年間継続
十三菩提式と興津Ⅱ式も諸磯式と浮島式の流れであるとするならば、その期間は650年以上になります。
550年間を現代でみれば、日本では室町時代応仁の乱頃から現在までの時間です。そのような時間にわたって二つの集団がそれぞれ文化的独自性を維持しながら、同じ集落に住むこともしながら、共存した状況を詳しく知りたいと思います。そこに異文化集団が共存できる知恵があるに違いありません。
また外来集団と考えている浮島式土器集団の方が、在地集団である諸磯式土器集団より多人数であったと考えられることも大変重要な問題を含んでいます。
農業生産社会では多人数集団が少人数集団の地域に入った場合、すべて在地集団を征服して同化することになると考えますが、諸磯式と浮島式では550年間にわたって大が小を飲み込むような状況が見られません。
諸磯式土器集団と浮島式土器集団の平和共存関係を具体的に知ることは、縄文学習を通り越して、現代人類社会の平和共存関係を考える上での一つのヒントになる可能性があるかもしれません。

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