2019年7月27日土曜日

五領ヶ台式土器と阿玉台式土器の分布

縄文土器学習 214

縄文土器形式毎にその出土遺跡の千葉県分布図を作成しています。この記事では中期の五領ヶ台式土器と阿玉台式土器の分布を観察します。

1 千葉県 五領ヶ台式土器出土遺跡分布図

千葉県 五領ヶ台式土器出土遺跡分布図
118遺跡がプロットされています。

千葉県 五領ヶ台式土器出土遺跡分布ヒートマップ
松戸市川付近だけでなく、手賀沼北側(我孫子・柏)に遺跡集中域が現れます。

2 千葉県 阿玉台式土器出土遺跡分布図

千葉県 阿玉台式土器出土遺跡分布図
527遺跡がプロットされています。阿玉台式土器は千葉県土器形式ランキングでは加曽利E式、加曽利B式、堀之内式に続く第4位の出土遺跡数を誇ります。

千葉県 阿玉台式土器出土遺跡分布ヒートマップ
松戸・市川付近と千葉市付近に遺跡集中域が分布します。

3 参考 五領ヶ台式期・阿玉台式期の貝塚分布とその記述 「千葉県の歴史 資料編考古4(遺跡・遺構・遺物)」引用
次の図は「千葉県の歴史 資料編考古4(遺跡・遺構・遺物)」掲載図から五領ヶ台式期・阿玉台式期貝塚だけを抽出したものです。 

五領ヶ台式期・阿玉台式期の貝塚分布
●図書の記述
Ⅲe期(五領ヶ台期~阿玉台Ⅱ期)は、奥東京湾沿岸に圧倒的に集落・貝塚の分布が集中していたⅢa~Ⅲd期とは異なり、古鬼怒湾水系に中心が移った。
現在の利根川下流域や霞ヶ浦周辺で、県内では小野川・黒部川水系に大型貝塚群を形成する。
山田町向油田貝塚はこの時期のみ、佐原市三郎作貝塚・小見川町木之内明神貝塚・同町阿玉台貝塚はこの時期からⅣ期まで、白井大宮台貝塚はⅢd期からⅣ期まで継続する。
いずれも大規模な斜面貝層について調査が行われており、貝類採取や魚類の網漁・刺突漁がさかんに行われたことが判明している。
大規模な貝層や想定される生業の内容は、東京湾沿岸におけるⅣ期の貝塚群との共通点が多い。
実際にⅣ期まで継続する例が存在することもあり、大型貝塚の出現と通年定住型集落を特徴とするⅣ期のはじめを阿玉台IaないしIb期とすべきかとも考えたが、東京湾沿岸の大型貝塚が阿玉台Ⅲ期に一斉といってよいくらいに現れることを重くみることにした。
なお,小野川・黒部川水系の貝塚群は広場集落を形成していたのではないかと想像するが、集落域の調査例が皆無に近いため不明である。
石器総数がかなり少なく、特に打製石斧が少ないなど東京湾沿岸との相違点も存在するようである。

4 メモ
・五領ヶ台式土器分布と阿玉台式土器分布が時間の上でどのように重なっていたのか、また二つの土器形式の併行的存在は異集団の存在を表現しているのか、今後詳しく学習する課題とします。五領ヶ台式土器が諸磯式土器の流れで、阿玉台式土器が浮島式土器の流れであるとイメージして当面は学習を進めることにします。
・この時期に貝塚分布の主な空間が東京湾から香取の海に移動する要因をたとえあやふやであっても作業仮説を持ちたいと思います。貝塚のある場所が縄文人にとって好適な場所であったことは確実ですが、好適な場所全部を利用しつくしていないことも確実ですから、その場所を貝塚として設定した縄文人特有の理由が存在したことも確実で、その理由を類推することは可能に違いないと思います。
・【空想】北方からやってきた浮島式-興津式-阿玉台式集団(B)の勢力がもともと在地である諸磯式-十三菩提式-五領ヶ台式集団(A)をはるかに凌駕した。その結果Bの本拠地である香取の海での貝塚が隆盛した。Aの本拠地である東京湾での貝塚は零落した。つまり集団AとBの人口変化があり、その空間投影が貝塚分布の変化として図に描かれている。

5 参考 千葉県縄文土器形式別等出土遺跡数

千葉県縄文土器形式別等出土遺跡数

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