2019年7月22日月曜日

取掛西貝塚の「事の重大性」に気がつく

縄文土器学習 206

1 取掛西貝塚の「事の重大性」に気がつく
ここまで、撚糸文や沈線文土器の時代には東京湾に貝塚はないと資料やデータベースで確認しつつ、土器学習をすすめてきました。
しかし、ふと、飛ノ台史跡公園博物館の企画展「ここまでわかった!1万年前の取掛西貝塚」(2019.02)の展示情景が目に浮かび、そこに東山式土器が展示されていたことを思い出しました。

飛ノ台史跡公園博物館の企画展「ここまでわかった!1万年前の取掛西貝塚」の東山式土器展示風景
2019.05.03記事「東山式土器 取掛西貝塚

東山式土器はデータベースに出てこないので分布図を作成していませんが、それが撚糸文期の土器であることは覚えています。
「東京湾岸の取掛西貝塚で撚糸文期東山式土器が出土することはどういうことだ?」という疑問が湧き、企画展資料を見返えしました。
そうすると撚糸文期にヤマトシジミが主体の取掛西貝塚が形成されたことを示す発掘情報がまさに「ここまでわかった!」まだアツアツの特筆情報であることに今更ですが気が付きました。これまで動物儀礼のほうにばかり目を奪われていたようです。

撚糸文期や沈線文期には東京湾岸には貝塚はないと思い込んでいた自分のお粗末さが恥ずかしいと感じる感情が3割、学習初級者として摂取した諸情報が結びつき学習が進展しているといううれしい感情が7割で混じった激しい感情が体を通り過ぎました。

平成20年に行われた発掘調査で、世の中としてはじめて、東京湾岸で撚糸文期のヤマトシジミを主体とする貝塚が発見されたのです。

企画展資料から引用

竪穴住居などからは大浦山式土器が出土しています。この土器は三浦半島付近で主に出土するので、海が三浦半島付近から古東京川を北上する環境変化に合わせて三浦半島付近の漁民が船橋付近まで北上移住してきたという空想も現実味を帯びます。
船橋付近で生まれたヤマトシジミが生息する環境を利用するために大須賀川の方から縄文人がやってきたと考えるより、古東京川下流部から縄文人がやってきたと考える方が合理的です。

縄文海進ピーク期以前の東京湾の様子の想像図 企画展展示パネルから引用

大浦山式土器は撚糸文期の稲荷原式土器、東山式土器などに併行するようです。

撚糸文系土器の型式編年
小林達雄編「総覧縄文土器」から引用

2 私家版千葉県遺跡データベースの情報追補の必要性
取掛西貝塚や雷下遺跡など近年の発掘成果情報をデータベースに追補する必要性について痛感させられました。
感覚としては最近10年間くらいに発刊された発掘調査報告書の主要情報が十分にデータベースに入っていないかもしれません。おそらく3ケタにとどく発掘調査報告書情報を取り込むプロジェクトが必要かもしれません。

3 縄文海進ピーク以前の地形復元の必要性
縄文海進ピーク以前の地形を沖積層基底面分布図等から復元して、海面が-50m、-40m、-30mなどの概略海面分布図を専用学習資料として作成する必要があります。東京湾だけでなく、香取の海、九十九里の海についても作成して空間イメージを作らなければ撚糸文期をはじめとする早期遺跡について十分な考察・思考をすることは困難です。
ヤマトシジミを主体とする貝塚ができたということは沿岸域の海がすべて汽水域であったということであり、溺れ谷の延長が極めて長かったことを示しています。その様子を地図上で確認する必要があります。


0 件のコメント:

コメントを投稿