2019年5月20日月曜日

堀之内1式土器 加曽利貝塚

縄文土器学習 129

縄文土器を形式別に観察しています。
2019.05.15記事「堀之内式土器 加曽利貝塚」で加曽利貝塚出土堀之内1式土器2点と堀之内2式土器1点を観察しましたが、この記事では残る堀之内1式土器ウを観察します。

1 堀之内1式土器 ウ の観察

加曽利貝塚出土堀之内1式土器の観察記録3Dモデル ガラス越し撮影
 撮影場所:加曽利貝塚博物館
 撮影月日:2019.05.16
 参考 左は餅ヶ崎遺跡出土称名寺式土器、右は加曽利貝塚出土堀之内2式土器

堀之内1式土器ウ 中央の土器

2 参考 堀之内式土器に関する山内清男編「日本先史土器図譜」の記述
「堀之内式は関東地方縄紋式土器後期の初頭に位するものであって、下総国東葛飾郡国分村堀之内貝塚(現在市川市)の土器を模式として、大正十三年自分が指摘したものである。この貝塚は大部分堀之内式の時代に属して居るが、地点によっては加曾利B式或は安行式を出土する。最初利用した資料は自分が大正六年に採集したもの及び大正十年鳥居博士一行(自分も参加)が発掘されたもので、これらは殆んど純粋に堀之内式からなって居たのである。
堀之内式はその後新旧二型式に細別された。また関東地方のうちでも多少地域的な差異を持って居り、例えば武蔵相模のものと、下総のものとは勿論共通した器形装飾を有するが、幾分異ったものを含んで居る様である。尚堀之内式に近似する土器型式は東は中部地方を超え北は東北地方を超えて北海道にも分布して居る。
関東地方の堀之内式は型式の年代順に於いて中期の終末即ち加曾利E式の新しい部分と、後期中葉の加曾利B式の中間に当ると共に、土器の形態装飾に於いても両者の中間を占めるものとしての特徴を持って居る。即ち中期に比して精巧となり、厚さは薄くなり、器形の変化を増して居る。装飾も亦次第に繊細となり磨消縄紋が盛行して居る。この点は堀之内式の新旧二型式に於いて明に看取し得られるのであって、旧型式では器の大形なもの多く、比較的厚く、口辺部には把手及び把手の縮小して生じた小突起に富んで居る。文様の磨消縄紋も直前の加曾利E式からの伝統を多分に持って居る。新型式に於いては器形小形のもの多く、薄手であり、口辺の突起は小形となり、磨消縄紋は極めて繊細なものとなり、漸次加曾利B式に近似する傾向を持って居る。
しかしながら堀之内式は加曾利E式及びB式間の中間型式ではなく、独立した部分を持って居る。また堀之内旧新両式も亦夫々別個の特有な土器とすべきものである。」
山内清男編「日本先史土器図譜」から引用

情報量の少なかった最初期の記述であり、とてもわかりやすい文章です。

3 参考 堀之内1式土器ウに類似した器形土器に関する山内清男編「日本先史土器図譜」の記述

図50
「50.堀之内貝塚出土。谷貞三氏蔵。帝室博物館写真複写。高さ53、1/4。口縁に四個の突起があり、環状把手が横向になって附着して居る。体の中央から上は文様帯となって居り、突起部から下垂する隆起線によって四つに区劃され、各区に同形の文様が加えられて居る。故谷(上羽)貞幸氏最後の採集土器であって、編者は嘗てこの土器の修理接合を行ったことがある。その時の所見として最も注意すべきことは、底から約1/3の高さに、もと製作時に上部と下部とを接合した部分が見られることであって、下方の接着面には一周数十個の刻み目を加え、上方の接着面にはこれに対応した粘土が刻み目に組合う様に突出して居ったのである。この種の接着面の刻み目は堀之内旧型式土器片中には往々認められるが、本例はよく刻目が、上下粘土環を固定せしめる役割を持つことを示す好例であった。この種の器形は武蔵相模方面には稀であり、下総方面には普通である。文様にはこの他種々の変化がある。」
図文章ともに山内清男編「日本先史土器図譜」から引用

4 検討メモ
4-1 土器の接合
図50土器が「もと製作時に上部と下部とを接合した部分が見られる」ことに強い興味を抱きます。「この種の接着面の刻み目は堀之内旧型式土器片中には往々認められる」のですからたまたまの特殊例ではなく、一般的な事象であるようです。
図50を拡大すると次のようになり、接合部分に段差があります。」

図50土器に見られる段差
この段差が「もと製作時」のものか、発掘後の復元作業で生まれたものかは不明ですが、写真でみるかぎり接合は明瞭なものであるようです。
このような視点で土器ウを見ると、土器下部に周回方向の割れ目とそれに連続するように見える線状パターンが観察できます。

土器ウの線上パターン(点線)
周回する割れ目部分には上下方向に指でさすったようなパターンも観察できます。これらの割れ目・線状パターン・上下指跡状パターンは恐らく「よくあるもの」でそれだけではなんとも言えないと思います。しかし、現物を手に取って土器内外面を子細に観察すれば、あるいは図50土器のような接合が発見できるかもしれません。

4-2 土器接合の意味
「もと製作時」に土器を接合したという意味が素人の無知識のためだろうと思いますがわかりません。
・土器を下部から作っていくときに、このような形状では二つに分割しないと上手にできないとも思えません。
・土器下部と上部の素材を変えることが必要で、そのために二つに分割して作成したとも思えません。
・土器を作る上て上部と下部を分業で作って、効率化を図ったとも思えません。
技術面や効率面では分割・合体作成する意味は解けないのではないかと考えます。

この記事では次のような飛躍した理由(仮説)をメモしておき、情報が集まった段階で検討を深めたいと思います。

堀之内式期集落の多くで異出自集団が一緒の生活を営んでいた。2つの習俗等が異なる集団が共同して生活することを相互に確認するために、わざと土器を分割・合体製作した。A集団が土器下部をつくり、B集団が土器上部をつくり、それを合体して土器をつくった。あるいはその逆で土器をつくった。その合体土器を使うことによってAB集団の共同の契りを象徴した。その土器を使うことで現実のいさかいを少なくした。

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